記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】9月26日

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9月26日の太宰治

  1935年(昭和10年)9月26日。
 太宰治 26歳。

 八月末に脱稿して送付した「ダス・ゲマイネ」の原稿料が入ったので、檀一雄、小舘善四郎、山岸外史とともに湯河原に遊び、翠明館(すいめいかん)に宿泊。

はじめての原稿料で湯河原旅行①

 1935年(昭和10年)9月26日、太宰は、8月末に脱稿したダス・ゲマイネの原稿料を資本に、湯河原へ遊びに行きます。それまで太宰が作品を発表していたのは、同人誌など原稿料の無い雑誌だったため、「文藝春秋」に掲載されたダス・ゲマイネの原稿料は、太宰にとって、はじめての原稿料でした。
 この旅行は、「三馬鹿」と呼ばれていた山岸外史檀一雄に、太宰の義理の弟・小舘善四郎を加えた、男4人旅でした。

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■「三馬鹿」 左から太宰、山岸外史、檀一雄

 今回は、このときのエピソードを、山岸の人間太宰治からの引用で、2回に分けて紹介します。

  皆で湯河原にいってみようという相談になった夕方がある。船橋の太宰の家である。太宰をはじめとして檀一雄、太宰の親戚の美校生小舘善四郎、それにぼくの四人が集っていた。記憶は鮮明さを欠くが、発議者は、当然、太宰だったのだと思う。初原稿料を気前よくその旅行で使ってみようというのである。「賛成」檀君がそういったことはおぼえており、小舘君はまったく「大賛成」であった。しかし、ぼくはあまり乗り気でなかった。なにかの都合で、家にかえる必要があったが、ことによると、すでに一晩くらい太宰の家に泊った翌日であったかも知れない。
「なにも、そんな口実をつけて女房に忠義立てをすることもあるまい」
 太宰は不服そうにそんなことをいった。結局、ぼくも折れてゆくことに同意したようにおぼえている。
「初代に電報を打たせておくよ」
 ぼくもじつに悠長な客だった。太宰二十六歳、檀君が二十三歳、小舘君が二十歳くらいであったか。太宰の出世祝いということですこぶる意気があがっていた。
 どうせ芥川賞次席くらいの原稿料ならば、むしろ気前よく散じてしまえ。そんな気分が、太宰にあったようにも思う。平生親しい友人たちと旅行でもして、気分を晴らすこともいいことだと考えているような節もあった。かなり突然の動議だったが、たちまち皆が双手をあげて賛成した。ぼくは気のすすまないままにゆくことになった。ほんとのところ、ぼくは太宰の最初の原稿料を旅行に使いたくない気持があったが、若い人たちは、そんなことに頓着なかった。ぼくはあとに残される初代さんが気の毒のように考えたこともおぼえている。しかし、太宰もまったく無頓着であった。夕刻の六時くらいになっていたと思う。夕食前に出発することになった。

 

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■太宰と妻・小山初代

 

 途中まで送るという初代さんを加えて、五人が家をでたときは戸外は真暗になっていた。当時このあたりは畑地もあり家数も混んでいなかった。ところどころに街灯はあったが、ひどく暗い町を感じた。千葉街道にでて、タクシイを拾うことになっていた。「よし。ぼくが一足さきにいって、いい自動車をとめてみせる」年齢のいちばん若い小舘君が、まっしぐらに駆け去っていった。その声は嬉々としていた。
「若い者はそれでなくちゃいかん」
 太宰が、そんな老成ぶったことをいった。その暗い道を歩いているとき、ぼくは、背後についてくる初代さんのことをふと考えた。なにか気の毒な感じがした。それに、なにも原稿料を全部つかいきってしまうこともあるまいと考えた。ぼくは太宰と並んで歩きながら、
「太宰、考えてみれば初稿料なんだから。全部使ってしまうこともあるまい。縁起をかつぐわけじゃないが、半分だけ初代さんに渡しておかないか」
 太宰はその全額らしい金を小さな合切袋(がっさいぶくろ)にいれて、その紐を手首にまいてぶらさげて歩いていた。稿料の金額は三百円くらいではなかったかと思う。しかし、当時は、宿泊料一人五円くらいのものだったから、一泊旅行なら四人で五十円もあれば十分だった。
 すると太宰が歩きながら、妙な返事をしたのである。
「もったいないよ」
 ぼくは「モッタイナイか」と思わず心のなかで呟いた。ひどく冷酷な性格を太宰に感じたものである。太宰の夫婦生活がみえるような気がした。ぼくは完全に意表をつかれて、二の句がでなかった。たしかに、一種の感動もあった。
 しかし、太宰はそのとき暫く黙って歩いていたが、急に背後を振りかえると暗闇のなかの初代さんにいったものである。
「山岸君がああいうから、特にだよ。特に、百円だけおまえにあげておく」
 そういうと太宰は、暗い道のうえで百円紙幣らしいものを初代さんに渡したようであった。
 太宰と初代さんの関係は、おおむねこんなことだったようである。太宰は大地主的なかなりに封建的な性格をもっていたようにも思う。そして、冷酷な女性感さえあったようにも思う。
 やがて夜の海のみえる千葉街道にでたが、小舘君はまだタクシイをつかまえてはいなかった。
「口ほどもないじゃないか」太宰がいった。
「なかなかいいのが来ないのだよ」
 小舘君が応酬した。
「だいたい京浜国道とちがって、この街道にはいい車はこないんだ。こんな辺鄙(へんぴ)なところに住んでいるのがわるいんだ」
 太宰は黙っていた。みなが暗い街道で笑った。やがて小舘君はやってきたあまり上等でない車をとめた。フォードの旧型だったのでまた皆が笑った。しかし一同それに乗りこんだ。初代さんが、窓からいってらっしゃいと言った。自動車は快速力で飛ばされた。そのうち、汽車に乗るまえに銀座で一杯やろうということになった。荒川放水路にかかった鉄橋をわたるとき、工場街の灯や橋灯が闇のなかに美しかったことをおぼえている。車内は賑やかだったが、ぼくはなにか孤独を感じていた。ぼくにも家庭問題があった時代である。

 

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■T型フォード 「流しタクシー」が出現したのは、1921年(大正10年)のこと。

 

「山岸君が余計なことをいうから、百円だけ損をしたよ。なにも初代になんかやることはなかったんだ」
 並んで腰かけていた太宰が車内でそんなことをいった。
「なに、あれでいいんだ。どうせ使ってしまう金じゃないか。ケチなことを言いなさんな」
 ぼくが答えた。
「とにかく、太宰にもたせておいたら、いつどこでどうするかわかったもんじゃない。会計はぼくがやる。太宰、金渡しなさい」
 聞いていた檀君が、太宰から合切袋を受けとった。
「合切袋が気にいりましたねェ」
 檀君が、それを眼のまえに紐でぶら下げて喜んでみせた。太宰は黙っていた。
「合切袋を生れてはじめてもちましたよ。全責任はぼくが引受けた。しかし、みんなぼくの命令で金を使うんだよ。倹約するときは倹約。使うときは、あくまでも使う」
 やがて銀座四丁目にでてそこで下りると、角のライオンにはいったことをおぼえている。その店で各自がジョッキイでニ三杯ずつ飲んだ。「余裕をのこす」という檀君の命令で、それ以上は誰も飲めなかった。

 

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銀座ライオン 写真は、銀座七丁目店。

 

 タクシイで東京駅にむかった。すぐ列車に乗りこんだが、ぼくは、入口の板壁に添っている扉の暗いガラスに映った自分の顔が、ひどく赤かったことを妙におぼえている。車中では陽気すぎる客だったのではないかと思う。
 湯河原駅につくとまたすぐ自動車に乗った。
「一流でなくてもいいが、まず、これならば、くらいの旅館はありませんか」
 檀君が運転手と交渉した。太宰が横から、
「上等にしろ。上等に」
 ひどく不服そうにいったが駄目だった。
「どうも、檀は倹約しすぎる」
「責任すなわち権利にも通ずる。それでなければ、会計辞退だ」
 檀君がいった。
「そのあとの言葉が余計なんだ。檀君はそれがいけない」
 太宰がいった。
 運転手が心得ていて、一軒の旅館のまえにとめてくれた。水明館という家だった。季節のせいかほとんど客はいなかった。室は玄関上の十畳二間だった。褞袍(どてら)に着がえると、風呂に入ることにした。たしか、浴槽に浸っている間に、芸者をよんでみようかということになったのだと思う。湯河原の芸者はどんなものか、というところから話がはじまったのではなかったかと思うが、
「とにかく、会計の許可を得なければ」
 と太宰がいった。
「それはよろしい」
 と檀君がいい、小舘君が湯から首をだしたまま、「それは大いによろしい」といった。
 風呂からあがると、おそい夕食を運びはじめた宿の女中に、「芸者を二人ばかりよんで貰えませんか」と檀君が交渉した。
「湯河原の芸者なんてつまりませんよ」
 宿の年増の女中が、親切にそういってくれたが、「それがみたいのでしてネ」と太宰まで口を添え、とにかく、女中も快諾した。若い人ばかりだったから、女中も親切に注意してくれたのだと思うが、その女中の褞袍(どてら)のだし方が「ぼくの方に親切なようだ」と太宰がぼくにいい、そんなつまらんことでも冗談をいいあったものである。ひどく器量よくない女中だったが、世辞もなくしっかりしているところが太宰には気にいったようにみえた。この翌日、庭で記念に写真師をよんで写真をとらせたときなども、その女中まで手招きしてよびよせ、山岸君とぼくとのどっちに接近して女中が立ったかなどと、そんなばかなことまで、殊更らしく問題にしたことを思いだす。その写真は残っている。

 

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■「その写真」 左から檀、太宰、山岸、小舘。後ろが翠明館の女中。

 

 褞袍(どてら)の四人が大きな宅を囲んで盃をあげている間に、「今晩は」といって、二人の若い芸者がはいってきた。その仕草をみたとき、すでに、ぼくは失望したのだが、太宰の夢もやぶれたらしかった。ここでその芸者のことをあまり詳しく書きたくないが、三味線もひけなかった。ぼくたちも歌ひとつ知らない方だったから、どうにも方法がつかないことになった。酒が苦がくなってきたのである。仕方がないから、ぼくは卓の隅に猪口をおいて、床の間の絵などみながら、独酌するという形になった。
 太宰もそれのようだった、暫くは、その女の子たちを相手に冗談をいったりしていたが、いつかむっつりと口を噤んでしまい、はては、卓にそって畳のうえにごろりと横になってしまった。ほとんど無礼といってもいいくらいあらわにやるせなさを表現したのである。そういう太宰をみていると、ぼくの頬にも微笑が浮び、一座はこんな形で、すっかり白けきってしまった。小舘君までそれに感染して、ひどく弾まない様子になった。女たちに冗談をいっていたが、それもつづかず、両膝を抱えて薄ら笑いをしていた。
 いやな役目をひき受けたのは檀君だった。女たちに責任とあわれみとを感じたのである。二人とも自分の脇によびよせて、童話まではじめる始末になった。それは懸命なものだった。檀君のこの態度はじつによく解ることだったが、それもみているより仕方がなかった。太宰は横になったまま動かず、ぼくは独酌をつづけていた。しかし、檀君は、必死になって、その演技をつづけていた。
檀君。もう、この辺で、女の子をかえすことにしようか」
 一時間半も経った頃だったと思うが、ぼくも、さすがに腹をきめてそういうと、眠っていたはずの太宰までが横になったまま、「それがいい。それがいい」といった。
 若い芸者たちは、それを機会(しけ)に帰っていった。わびしそうだった。
「どうもありがとう。ほんとうにご苦労さんでした」
 檀君がその子たちの背後から気の毒そうにそういった。
「いや、これでよかった」
 太宰がやがてむっくり起きなおってそういうと、そのとき突然、檀君が怒りはじめたのである。ぼくも驚いたが、それは憤怒というのに近い激情だった。

 

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檀一雄

 

「太宰。貴様、生意気だぞ。これでよかったとは、なんていう言い分だ。おれのいままでの苦労がわからんのか」
 檀君は、とうとう爆発したのである。畳のうえに仁王立ちになって蒼くなった。背のたかい檀君の毛脛が短い褞袍(どてら)の下から二本みえていた。しかし、太宰は床の間を背に胡坐をかいたまま、
「なにも好きこのんでサービスすることなんてないんだ。君は勝手にやっていたんじゃないのかね」
 不承不承にそういった。
「勝手とはなんだ。サービスとはなんだ。貴様、我儘すぎるぞ」
 檀君の声はますます大きくなった。
「だって、この旅行はみんな勝手でいいのじゃなかったのか。ぼくだって勝手。君だって勝手だ。それだけじゃないか。ぼくはサービスに疲れてる」
 ぼくは思いがけない状況を黙ってみていた。
「それが貴様の勝手だというのか。絶交だ」
 さすがに檀君は腕力を使う気にはならないようだった。じりじりして半歩ほど動いた。
「つまらん。おれは帰る。こんな旅行がしていられるか。気にくわん。預かった財布はおいてくぞ」
 それから小舘君の方をむいて、「財布は受取って下さい。汽車賃だけは借りますよ。一銭もないんだ」足音も荒く隣室にはいっていった。そこの調度箱には各自の衣類が畳んでおいてあった。仕方がない。ぼくは起ちあがった。喧嘩の仲裁役は厭だったが、檀君を帰すわけにはゆかなかった。小舘君もすぐ立つとぼくと一緒に隣室に入っていった。ぼくと小舘君とはそこで自然に両側から檀君の腕をとるような形になった。
檀君。やめないか。つまらんよ。だいいち、汽車なんかもうないぜ」
 檀君は歩行を阻害されたのを振り払うように勢いあまって廊下にでた。
「歩いてだって帰れます」
「歩くわけにはゆかんさ。東京は遠い。二十里はありますよ」
 興奮している檀君は、そのままぐんぐん廊下を歩き、二人が両側につきそうな恰好で、いつか宿の広い階段を下りていった。階下の広い廊下を帳場の方にゆくのかと思ったが、檀君は反対の暗い方向に広い廊下をぐんぐん歩いていった。ぼくたちはおなじような歩幅で、その両腕をつかみなおしながら歩いた。しかし、ぼくはその方向を知ると占めたと思った。それは遠く湯殿に通っている廊下だったからである。宿はもう寝しずまっていて廊下はしずかだった。すべる板廊下だったが三人ともスリッパをはいていず、足音がびたびたした。
「太宰も我儘すぎやしませんか。無礼だ。サービスとはなんだ」
 檀君がいった。
「そうだ。我ままといえば我ままだ。勝手といえば勝手だ」
 廊下の天井の暗い電灯がぽつんぽつんとつづいていた。
「檀さん。そう興奮したってつまらんと思うのですがネェ」
 小舘君が脇からいった。

 

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■小舘善四郎

 

「興奮なんかしてやしない。ぼくは冷静なんだ。あれでは誰だって腹が立つと思うけど。ちがってますか」
 檀君は廊下の鍵の手のところでちょっと曲って、またどんどん歩いていった。
「とにかく、帰ることは止めよう。ひとりぬけたら旅はつまらなくなるものね」
「そんなことまで考えられませんね」
「それじゃ、君だって勝手じゃないか」
 湯殿のまえを通過すると、突きあたりはすぐ壁になっていた。ぼくはおかしくなった。
「アハハ、檀君。突きあたりだよ。引きかえそう。壁じゃ仕方がない」
 もとの階段の下まで引きかえしてきた。そこで、みな立ち止まった。
ヒューマニズムがありすぎたんだネ、君には。……しかし、太宰にはその余裕がなかったんじゃないか」
 ぼくは、サービスという言葉を避けた。ぼくも嫌いな言葉だった。
「サービスとヒューマニズムはちがうからね」
「それがわかってくれますか」
 檀君がいった。
「ばかな。みんな、それで苦しんでるんだ」
「そうだとしたら、ぼく、謝ります」
 竹をわったような正義派で、直情径行の檀君は、また、ひどく純粋でもあった。それで、サッパリしたらしかった。
「それじゃ、二階にあがろう」
 室に戻ってくると、檀君は立ったまま太宰にむかって、
「おい、太宰、おれがわるかったよ」といった。太宰はしょんぼり卓のところに坐っていたが、なにかまぶしそうな顔をして檀君をみあげながら、「なにも謝ることなんてないよ」と答えた。
「要するに、ヒューマニズムの失敗さ」
 小舘君がいった。それから、飲みなおすことになって、すこしばかりやってから風呂にはいった。

 

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■太宰

 

「いかにもヒドイ芸者だったネェ」
 ひろい湯槽のなかで太宰がいった。
「ぼくも疲れていなければサービスするんだけど、今夜だけは駄目でしたよ」
 檀君が、その言葉を聞くと「太宰、サービスという言葉はやめろよ」といい、小舘君が周章(あわ)てて「太宰、それはヒューマニズムなんだよ」といい、それがおかしくて、檀君まで笑った。太宰はひとりぶつぶついっていた。

  翠明館(すいめいかん)で過ごす夜の続きと、船橋までの帰途については、はじめての原稿料で湯河原旅行②で紹介します。

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翠明館(すいめいかん) 旅館の玄関にて。1954年(昭和29年)撮影。翠明館は、1933年(昭和8年)創業だったため、太宰一行が訪れたのは、まだ出来て間もない頃でした。

 【了】

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【参考文献】
・山岸外史『人間太宰治』(ちくま文庫、1989年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「東京のタクシー百年史 タクシー生誕100周年」(社団法人 東京乗用旅客自動車協会)
・HP「翠明館温泉日記
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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