記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】9月30日

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9月30日の太宰治

  1945年(昭和20年)9月30日。
 太宰治 36歳。

 「作者の言葉」とともに、「パンドラの匣」二十回分、八十枚近くを村上辰雄宛送付。

パンドラの匣』にかける熱量

 1945年(昭和20年)9月20日過ぎ、故郷・金木町に疎開していた太宰のもとを、宮城県仙台市にある新聞社・河北新報社の出版局次長・村上辰雄が訪れ、日刊新聞である「河北新報」への新聞連載小説を依頼します。太宰は、「終戦後の希望」を書きたいと語り、「月末までに第一回を送稿する」と約束しました。
 依頼を受けて書かれたのが、太宰にとって初の新聞連載小説となるパンドラの匣でした。パンドラの匣執筆のきっかけになった村上の金木訪問については、9月21日の記事で紹介しました。

 村上の訪問を受けた約1週間後の、同年9月30日。太宰は約束通り、「作者の言葉」とともに、パンドラの匣20回分、80枚近くを村上宛に送付しました。

作者の言葉

 この小説は、「健康道場」と称する或る療養所で病いと闘っている二十歳の男の子から、その親友に宛てた手紙の形式になっている。手紙の形式の小説は、これまでの新聞小説には前例が少かったのではなかろうかと思われる。だから、読者も、はじめの四、五回は少し勝手が違ってまごつくかも知れないが、しかし、手紙の形式はまた、現実感が濃いので、昔から外国に於いても、多くの作者に依って試みられて来たものでる。
パンドラの匣」という題に就ては、明日のこの小説の第一回に於て書き記してある筈だし、此処で申上げて置きたい事は、もう何も無い。
 甚だぶあいそな前口上でいけないが、しかし、こんなぶあいそな挨拶をする男の書く小説が案外面白い事がある。

(昭和二十年秋、河北新報に連載の際に読者になせる作者の言葉による。)

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疎開中、太宰が仕事部屋としていた部屋 2018年、著者撮影。

 この短期間で、これだけの原稿を書き上げるのは難しく、村上の依頼を正式に承諾する前から、執筆に着手していたものと思われます。同封された走り書きのメモには、

竹さんなる女性の顔は、当分挿絵のほうには出さないよう画伯に御伝言下さい。そのわけは、あとでわかります。大いに面白いものを書くつもりです。

と書かれていました。

 この原稿を受け取った村上は、パンドラの匣の挿絵を描く予定になっていた、仙台近郊の宮床村(現在の大和町)に住む歌人原阿佐緒宅に疎開していた中川一政(なかがわかずまさ)にその原稿を届けて依頼しましたが、中川は、「これはとても描けない。いや、こういう小説にタッチしたら、面白くて、精魂をつくし果てるまでに抜きさしならなくなる。僕がこのパンドラの匣をやるとしたら、きっと絵筆の勉強を投げ出してかかるだろう。それが怖いので、とても描けない。どうか太宰君によろしく言ってください」と断られてしまいました。

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中川一政(1893~1991) 洋画、水墨画、版画、陶芸、詩作、和歌、随筆、書と多彩な作品を制作。全て独学で、自ら「在野派」と称した。洒脱な文章でも知られた。

 最終的にパンドラの匣の挿絵は、版画家・恩地孝四郎が担当することになりました。恩地はのちに、「新聞小説でこんなにまとめて原稿をもらったのは太宰さんが初めてだった」「これほど楽しい仕事はかつてなかった」と回想したそうです。

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恩地孝四郎(1891~1955) 創作版画の先駆者のひとりであり、日本の抽象絵画創始者とされている。前衛的な表現を用いて、日本において版画というジャンルを芸術として認知させるに至った功績は、高く評価されている。

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・須永誠『太宰治と仙台 ー人・街と創作の接点』(河北新報出版センター、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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