記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】10月3日

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10月3日の太宰治

  1928年(昭和3年)10月3日。
 太宰治 19歳。

 文藝同人誌「猟騎兵(りょうきへい)」の第四号から同人となった。

太宰、「猟騎兵(りょうきへい)」の同人に

 1928年(昭和3年)10月、太宰は、小泉清治(こいずみせいじ)とともに、藤田金一(ふじたきんいち)(新町小学校訓導)、柿﨑守忠(かきざきもりただ)(青森中学校教諭)などによって、同年6月に創刊された文藝同人誌猟騎兵(りょうきへい)の第四号(10月20日付発行)から同人となりました。太宰が、弘前高等学校2年生の時です。
 「猟騎兵」の編集兼発行人は、当時21歳だった藤田。発行所は、青森市浦町野脇三六ノ一、「猟騎兵」でした。

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弘前高等学校時代の太宰

 太宰が、この同人誌「猟騎兵」に加盟することになったきっかけは、「猟騎兵」創刊号からの同人・小山義正(こやまよしまさ)が小泉と親しく、太宰と小泉は弘前高等学校で親しかった、という背景があったようです。

 小泉は、太宰と同じ1930年(昭和5年)4月に、東京帝国大学文学部哲学科に進学します。上京後の小泉と太宰は、東京府豊多摩郡下戸塚町諏訪250番地の学生下宿・常盤館に同宿しました。この常盤館は、まだ新しい大きな建物で、下宿人は5人。太宰の部屋は、一番奥まった、離れのような広い部屋だったが、陽当たりの悪い所だったといいます。
 小泉は、弘前高等学校時代からすでに積極的にシンパ活動をしていたそうです。工藤永蔵は、面識があった小泉を通して、学生支持者の組織に参加するよう勧誘。たびたび工藤の訪問、勧誘を受けた太宰は、組織へ毎月10円のカンパを出すようになっていったと言われています。毎月10円のカンパは、現在の貨幣価値に換算すると、約19,200~19,800円となります。「猟騎兵」への参加は、太宰上京後に左翼運動に参加するきっかけの1つとなったのかもしれません。

 当時の「猟騎兵」同人は、柿﨑守忠(かきざきもりただ)高木恭造山本謙吉渡辺惣助)、藤田金一(ふじたきんいち)阿部合成(あべごうせい)佐藤岩之助柴田文三柴田小三郎など。雑誌名は、柿﨑が「フランス語の”Chasseur ā cheval”をそのまま何かしら文学”詩”のあるものを射とめたいといったような気持」から命名したといいます。

 太宰は、1929年(昭和4年)8月3日付発行の「猟騎兵」第六号に、小菅銀吉ペンネームで、新選組の局長・近藤勇を題材にした虎徹宵話(こてつしょうわ)を発表しています。

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■「猟騎兵」 青森中学出身者で刊行された文藝同人誌。小菅銀吉(太宰)の虎徹宵話(こてつしょうわ)に加えて、阿部合成『南京鳥と士官』の名前も見られます。

 「猟騎兵」は、1929年(昭和4年)11月1日付発行の第七号で廃刊となりました。

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「日本円貨幣価値計算機
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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