記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】10月6日

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10月6日の太宰治

  1934年(昭和9年)10月6日。
 太宰治 25歳。

 午後七時から、銀座の「山の小舎」で、「青い花」同人の初顔合せ会が開かれた。

なかなかの熱の入れ方「青い花

 1934年(昭和9年)9月中旬頃、太宰は、ドイツ浪漫派の詩人・ノヴァーリスの作品「Heinrich von Ofterdingen(Die blane Blume)」に名を借りた、同人誌青い花の発刊を企画しました。

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ノヴァーリス(1772~1801) ドイツ浪漫主義の詩人、小説家、思想家、鉱山技師ペンネーム「ノヴァーリス」は、ラテン語で新開墾地を意味する。

  この「青い花」の会に、やがて今官一の推薦で小野正文ペンネーム:斧稜)が加わりました。また、中村地平の紹介で山岸外史も加わり、以後14年間にも及ぶ2人の交際が始まりました。

 1934年(昭和9年)初秋、この「青い花」がきっかけで、交際が始まった太宰と山岸。山岸が太宰宅を初めて訪問した時の様子は、2月11日の記事で紹介しました。

 2月11日の記事では、山岸の人間 太宰治から引用して、山岸から見た太宰の第一印象を紹介しましたが、前回引用した部分に続けて、「青い花」についての次のような会話も交わされていました。

「まあ、ゆっくり、話をしましょう」
 ぼくがいった。
「別に急いでもいないのですがね」
 太宰が多少は不服らしくいった。
 この日の会話は、こんなところからはじまったようにおぼえている。
「むろん『青い花』は、ほん気でやるつもりなんでしょうね」
 ぼくがそういうと、
「ほん気というのは、どういうことでしょうか。ぼくは、いつも、ほん気のつもりなのですがね」
 太宰は笑わなかった。糞まじめな顔をしていたが、鷹揚な姿勢をとっているらしくもみえた。太宰は眉のくろい男だった。それから、
「今日とつぜん、あなたが来られたのですが、ほんとは、『青い花』は、まだ、はっきりしていないのですよ」
 そんなことをいった。ぼくは、ことによると、ぼくを異物とみて、入会に要慎しているのかも知れないと、そんなことを考えて、自然と微笑をもらした。しかし、事実、太宰のいうとおり、「青い花」はひとつの発案だけで、まだ、なんらの準備もできていないことが、次第にわかってきたのである。

 

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■山岸外史

 

「失望しましたか」太宰がいった。
「失望はしませんね。これは、やらなければならない雑誌なのだから。なかなか、好い名前ですね」
「あなたには『青い花』という名が気にいったのですか」
 太宰が曲り角をすぎたように応接をはじめた。
「時代を打っているいい題名だと思いますね。最下部の意識という課題を含んでいると思いますからね。非常にいい題です」
 太宰は、ちょっと考えたようだったが、ちらりとぼくをみた。
「しかし、ノバリスから取っても、ノバリスのつもりじゃないのですがね。念のため、そういっておきたいのですが」
「むろん、そうだと思っていますがね。しかし、『青い花』とつけても恥辱にはなりませんからね」
「それが解ってもらえれば嬉しいのだけど」
「むろん、それが解っているから、やってきたつもりなんですがね」
 ぼくは、二時間ほどまえに、中村地平から「青い花」の話を聞いたばかりのこと。その題名だけで、百パーセント、意図がわかったような気がしてかなり興奮していっきょ(、、、、)にやってきたことを、そのまま話した。「青い花」は、英知の花で、苦悩のシムボルだと考えていることをいうと、太宰は同感するような顔をした。
「今日は、心理というよりも意識の内面性に課題があると思うからですね」ぼくがいった。
 太宰にとっても、苦悩という言葉は深い意味に考えられているらしかった。煙草に火をつけた。
「ぼくはそれ以外のものはじつは信じていないのですよ」といった。
「苦悩のない文学なんて、信ずる気にもなれないのでね」そんなこともいった。

  2人の会話は続きますが、山岸は最後に、

「まあ、批評の方の仕事は、ぼくにまかせておいて下さいよ。めったに人に負けることはないつもりだから。『青い花』がでたら、ぜったいに援護射撃をしますよ」
 ぼくもなかなか豪語したものである。その間に、いったん社に戻った中村地平がやってきて、座が賑やかになった。太宰と中村君とは、すでにぼくより親しかったから、ぞんざいな言葉でやりあった。とにかく、同人を糾合しなければならないということになった。太宰は見込みのある自分の友人たちを推薦するといった。(太宰は、この頃研究会をやっていて、その人々がだいたい推薦されたのである。)中村地平は、推薦できるのは自分だけだといった。ぼくは、すべての過去を切断するつもりで、ただひとり、津村信夫だけを推薦した。
 この夜が最初となって、太宰とぼくは急激に交友関係を深めていったのである。
 太宰の「青い花」に対しての熱の入れ方は、なかなかのものであった。

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■「青い花」発刊企画 太宰治が記した。

 そして、1934年(昭和9年)10月6日。太宰にとっては待望の、「青い花」同人の初顔合わせ会が、銀座「山の小舎」で開かれました。
 午後7時からはじまった初顔合わせに出席したのは、9名。この時点で加入した同人は、太宰今官一森敦檀一雄津村信夫北村謙次郎伊馬鵜平(のちの伊馬春部)、小山祐士山岸外史中村地平岩田九一久保隆一郎でした。
 この会合では、同人費は毎月5円(最初だけ6円)、創刊号原稿〆切は11月20日とすること、12月15日付で「青い花」一月号として創刊号を発刊すること、創作30ページ60枚で30枚ずつ2篇、詩2ページとすること、課題欄は全同人1人3枚執筆すること、草紙欄各人1ページ自由に使うこと、発行部数300、定価15銭とすることなどが決定します。
 編集には太宰、今、久保、檀の4人があたり、編集所は今の自宅となりました。

 【了】

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【参考文献】
・山岸外史『人間 太宰治』(ちくま文庫、1989年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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