記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】10月7日

f:id:shige97:20191205224501j:image

10月7日の太宰治

  1936年(昭和11年)10月7日。
 太宰治 27歳。

 初代がパビナール中毒を心配して井伏鱒二を訪れ、相談。

初代、太宰の身を案じて井伏宅へ

 1936年(昭和11年)10月7日、太宰の最初の妻・小山初代は、太宰のパビナール中毒を心配して、太宰の師匠・井伏鱒二宅を訪問します。
 この3日前の10月4日、船橋の太宰宅を、親友・伊馬鵜平(のちの伊馬春部)と小山祐士が訪れ、伊馬はその時の様子を、この前日の10月6日に井伏宅を訪問して伝えていました。初代の訪問は、伊馬からの報告を聞いて、井伏が太宰のことを憂慮していたタイミングだったと思われます。 

 それでは、初代が井伏宅を訪問した時の様子を、井伏の太宰 治から引用します。

 十月七日(昭和十一年)
 太宰のところの初代さん来訪。太宰君パビナール中毒にて一日に三十本乃至(ないし)四十本注射する由、郷里の家兄津島文治氏に報告し至急入院させたき意向なりと云う。太宰の注射数は、多量のときは一日に五十数本にも及ぶ由、一回に一本にては反応なく、すくなくも一回五本の注射の必要ありと云う。今日までその事実を秘密にせし所以(ゆえん)、解し難しと小生反問す。初代さん答えて曰く、太宰は、もう三四日待て、もう三四日待て、俺のからだの始末は俺がするとて今日に及び、この始末なりと。小生、入院の件に賛成す。

f:id:shige97:20201001210851j:image
井伏鱒二

  井伏の記録には、「日に五十本」「一日に五十数本」の注射をしたとありますが、これは、初代が必死さを伝えるために井伏や伊馬に誇張して語ったものと思われます。
 当時の船橋薬局の1936年(昭和11年)7月1日~10月13日の間の「通帳附込」を調べた、太宰の妻・津島美知子の調査結果によると、1日平均で、

 7月=17.5本
 8月=17本
 9月=16.2本
10月=31本

となるそうです。

 同日付で投函された、中畑慶吉宛に書かれた北芳四郎の手紙には、「今薬局屋の方へ二百五拾円位有ります」と書かれています。船橋薬局の「御通」には、「百五拾余円」とあり、百円の誤差が生じているのは、他の費用も含む金額だったのだと推測されます。
 同手紙には、「先日御話し致しました様に致したい」とも書かれています。これは、太宰を東京武蔵野病院に入院させる手順についてのことだと思われます。北が、太宰を東京武蔵野病院に入院させようとする経緯については、9月24日の記事で詳しく紹介しています。

 太宰はこの頃、パビナール中毒と肺病とで疲弊した身体を休めるため、信州にある「富士見高原療養所」で、満2年のサナトリアム生活を計画していました。
 しかし、太宰の行動を見るに見かねた周囲の動きにより、太宰は自身が想定していたのとは異なる方向に進まざるを得なくなってしまいます。

 井伏は、初代訪問の2日後の10月9日、伊馬宅へ太宰のことについて相談に行き、10月10日、佐藤春夫宅を訪問します。

 十月十日
 夜十時、佐藤春夫宅を訪問し、太宰入院の件について相談す。佐藤氏も拙者の意見と同一なり。深更に及んで辞去す。

 太宰が、東京武蔵野病院へ入院する時が、刻一刻と迫っています。

f:id:shige97:20200716131453j:plain
■太宰と初代

 【了】

********************
【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
井伏鱒二『太宰 治』(中公文庫、2018年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************

【今日は何の日?
 "太宰カレンダー"はこちら!】

太宰治、全155作品はこちら!】