10月12日の太宰治。
1946年(昭和21年)10月12日。
太宰治 37歳。
十月十二日付で、村上辰雄と戸石泰一に手紙を送る。
疎開先で弟子を気遣う太宰
太宰は、1945年(昭和20年)7月31日から、三鷹、甲府を経て、故郷・金木町へ疎開していました。太宰は、翌1946年(昭和21年)11月12日までの約1年4ヶ月半を金木で過ごしますが、筆まめな太宰は、金木からも多くの手紙を書いています。
今日は、1946年(昭和21年)10月12日付で、疎開中の太宰が、村上辰雄と戸石泰一に送った2通の手紙を紹介します。
村上辰雄は、宮城県仙台市に本社を置く新聞社・河北新報社の出版局次長です。前年9月半ば過ぎ、村上は疎開中の太宰のもとを訪れ、日刊新聞である「河北新報」に新聞小説『パンドラの匣』の執筆を依頼しました。太宰は、「終戦後の希望を書きたい」と快諾。『パンドラの匣』は、同年11月9日まで、全64回が執筆されました。
青森県金木町 津島文治方より
仙台市東三番丁一七〇 河北新報社出版局
村上辰雄宛
拝復 御手紙をいただくたびごとに、仙台へ行きたくてなりません。
日野さんも本社へおかえりとか、いよいよ仙台へ行きたくなります。でも、祖母の葬式のすまぬうちは、どうも、遠方へは出かけられず、文治がそろそろ東京から帰るでしょうが、それから葬式の日取りをきめたり何かして、結局葬式は月末になるでしょうし、まあ、来月でなくちゃ動けません。それにまた、仕事があって、痩せてしまいます。
戸石の事は、何卒よろしく御指導たのみます。のんきすぎるところがありますが、しかし、人を裏切るなんて事は知らない男です。剣道三段でも、しかし、暴力をふるう事は、絶対にありません。あれで自分ではスマートだと思っているらしく、そこが唯一の欠点です。
宮崎さんに、くれぐれもよろしく。 敬具。
十月十二日 太 宰 治
村 上 様
太宰は、手紙の中で何度も「仙台行き」への気持ちを吐露します。太宰は、そろそろ三鷹に戻りたいと思っていたようです。同年7月4日、太宰の祖母・津島イシが眠るように長寿を全うしました。享年90歳。長兄・津島文治が上京中だったため、葬儀を行う事ができず、太宰の再上京は文治の帰青と葬儀の終了を待ってからとなりました。
■金木の太宰の生家
戸石泰一は、仙台市石垣町3番地生まれ。旧制高等学校文科2年生の時、太宰の『八十八夜』を読んで心酔し、1940年(昭和15年)、東京帝国大学文学部に進学して上京し、念願叶って三田循司と太宰宅を訪問。太宰に師事します。戸石は、太宰の義弟・石原明の下宿探しを手伝ったりもしています。
戸石は、1942年(昭和17年)9月25日に半年繰り上げで、東京帝国大学を卒業。同年10月1日、仙台の第二師団歩兵第四連隊に入営します。2年後の1944年(昭和19年)1月9日、陸軍予備士官学校を卒業し、シンガポールへ入港。スマトラの第二十五司令部付少尉となり、戦地で終戦を迎えます。
その後、捕虜、復員などの日々を送りますが、次に紹介するハガキは、故郷・仙台に戻って来た戸石に宛てて太宰が書いたものです。
青森県金木町 津島文治方より
仙台市東三番丁 河北新報社記者室
戸石泰一宛
拝啓 河北へ入社できた由、きょう出版局の村上さんからたよりありました。僕も、君が河北へはいったらどうかしらと思っていたのでした。何よりでした。村上さん、それから宮崎さん、いつも僕が世話になっていますから、君からもよろしくと言って下さい。河北は中央一流紙に少しも劣らぬ新聞紙ですから、充分に御奮闘を祈る。僕の仙台行きは十一月になるかも知れぬ。 敬具。
太宰は「僕も、君が河北へはいったらどうかしらと思っていたのでした」と書いていますが、就職の斡旋をしてあげたりもしたのでしょうか。疎開中でも、常に弟子の事を気遣う太宰でした。
【了】
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【参考文献】
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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