記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】10月13日

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10月13日の太宰治

  1936年(昭和11年)10月13日。
 太宰治 27歳。

 朝、北芳四郎(きたよししろう)中畑慶吉(なかはたけいきち)船橋に来訪、井伏鱒二とともに麻薬中毒治療のために入院するよう説得。遂に入院を決意した。

太宰、東京武蔵野病院へ入院

 1936年(昭和11年)10月13日、朝。
 太宰のお目付け役・北芳四郎(きたよししろう)中畑慶吉(なかはたけいきち)の2人と、太宰の師匠・井伏鱒二船橋の太宰宅を訪問。パビナール中毒治療のため、東京武蔵野病院へ入院するよう太宰を説得し、太宰は、入院を決意します。東京武蔵野病院は、1928年(昭和3年)に私立東京武蔵野病院として開院した精神科病院でした。
 太宰自身も、パビナール中毒と肺病とで、自身の身体が疲弊していることを自覚しており、信州の富士見高原療養所でのサナトリアム生活を計画していましたが、東京武蔵野病院への入院は、太宰には秘密裏に進められていた計画でした。

 この頃、東京武蔵野病院内に、警視庁麻薬中毒救護所が併設。太宰の妻・小山初代から、太宰の動向を内密に聞いていた、警視庁自警会指定の北洋服店店主・北は、いち早くそれに気付き、太宰の長兄・津島文治にも連絡した上で、東京武蔵野病院の院長・渡辺に相談。中畑と共に、太宰の東京武蔵野病院への入院計画を進めていました。

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北芳四郎(きたよししろう)中畑慶吉(なかはたけいきち) 写真左、北の手前に映っているのは井伏鱒二

 船橋から自動車で雨中を走り、日が暮れた頃に、板橋区茂呂町3639番地(現在の板橋区小茂根四丁目11番11号)の東京武蔵野病院に到着しました。武蔵野線(現在の西武池袋線)の江古田駅から歩いて15分、たまに百姓家がある程度で、一面の麦畑の中にあり、病院は、板塀に囲まれた、スレート屋根の雨漏りのする粗末な建物でした。

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■陸軍が1936年(昭和11年)8月14日に撮影の航空写真 写真中央、縦に白く6棟見える建物が東京武蔵野病院。提供/国土地理院

 初診は、当直の医師・牛山篤夫。牛山は、慶應義塾大学医学部精神科教室から派遣されて東京武蔵野病院に在職、患者の診療に当たっていました。牛山は後年、癌治療薬SICを発見して話題になりました。
 入院時は、付き添って来た井伏が保証人になり、入院証書に爪印が押してあったそうです。当時の入院料は、個室(特別室)で1日あたり4円50銭でした。

 「病床日誌」の牛山の記録によると、「パビナール・アトロピン注射(皮下)」が「現在ハ一日一〇〜三〇筒に及」び、「禁断症状」として「全身倦怠、欠伸、悪寒、発汗、下痢、嘔吐等/Character:Degenerant」、「現症」として「長身、痩躯、貧血性、左側肺結核(左胸全般ニ乾、湿性ラ音)/扁平胸」と書かれてあります。

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■「病床日誌」

 結果、太宰は「慢性パビナール中毒症」の「病名」で入院と決定しました。入院費は、太宰の長兄・文治の代理人である北が支払いを引き受けました。

 太宰は当初、病院本館2階の特別室に収容されます。良家の患者という配慮から、見晴らしのきく明るい解放病室が用意されていました。
 しかし、同日夜、「自殺」または「逃亡」のおそれがあるとして、鍵のかかる閉鎖病棟、西側男子第一病棟1階第3号室に収容されました。押入れ付き畳敷きの六畳の個室で、外側は鉄格子の()まったガラス窓になっていて、廊下側は障子。同病棟内の板敷きの廊下には自由に出入りできたが、病棟の外れは、鍵のかかった網戸で仕切られていました。部屋の中は、天井が高くて日中でも薄暗く、室内には夜具一式があるだけでした。閉鎖病棟に移された太宰は、格別苦痛の様子もなく、床上に横になり、安らかに睡眠をとっていたそうです。

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東京武蔵野病院(撮影年不詳)

 翌10月14日、早朝。
 井伏は、佐藤春夫へ太宰の入院を報告する書簡を認め、投函します。太宰入院前の10月10日、井伏は佐藤宅を訪問し、太宰の入院の件について相談していました。「佐藤氏も拙者の意見と同一」だったといいます。

前略 太宰君は昨夜東京武蔵野病院に入院しました。椎名町の近くで江古田の武蔵野病院といえばすぐわかります。医師の診断では
胸の方はそんなに心配はない。片方がすこし悪い。
もちろん胸の方の手当も考慮しながらパビナール中毒の消える手当てをする。
入院して数日間は相当に苦しい。
一箇月あまりこの病院で辛(ママ)しなくてはいけない。
家族の面会は許さない。
附添看護婦は老練なのを選びたい。
患者の所感はどうであるか。
太宰君の答えは、
覚悟して来た。入院したい。
どうかよろしく頼む。
とりあえず、うどんが食べたい。
割合い順(ママ)に運びました。入院費は一日四円五十銭です。大崎の北芳四郎という人(津島文治代理人)が支払いを引受けてくれました。太宰君の細君はパビナールを用意して来ていましたが、そんなことをしては何にもならないので太宰君に渡さないで帰りました。家を出るとき、最後にもう一回どっさり注射してやると密約していたのです。それを餌に太宰君は病院に来たようなもので、思えば可愛想なことですが、止むを得ません。いずれ細君が先生のお宅に参上し詳しく報告すると思いますが、以上簡略ながら御報告いたします。青森から出京中の津島文治代理人中畑という人は、母親危篤の電報が来て昨夜帰郷しました。
  十月十四日早朝
          井伏鱒二
  佐藤先生
   奥さんによろしくお伝え願い上げます

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佐藤春夫井伏鱒二

 同日、副医院長・中野嘉一(なかのかいち)(1931年(昭和6年)慶應義塾大学医学部卒業、当時30歳)が担当医師に任命されました。太宰が入院中の31日間、毎日「看護日誌」が記録されており、「看護日誌」の記録とカルテをもとに、中野は太宰治ー主治医の記録を記しています。
 太宰は、中野の診察に対し、不安、苦悶性を示して、興奮状態になり、顔面紅潮し涙を落としたといいます。午前中は読書に専念し、格別容体に変わりはありませんでしたが、午後3時半から4時まで激しい悪寒に襲われていました。
 中野は、「不法監禁」「救助タノム」「虐待」などの文字を壁紙やガラス戸に色鉛筆で書きなぐり、中野や看護人が廊下を通ると、動物園のサルのように鉄格子につかまって「出してくれ」と怒鳴り、かわいそうに思ったこともある、と回想しています。

 太宰は、同年11月12日までの1ヶ月間、ここ東京武蔵野病院で過ごすことになります。

 【了】

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【参考文献】
中野嘉一太宰治ー主治医の記録』(宝文館叢書、1980年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
井伏鱒二『太宰 治』(中公文庫、2018年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「東京武蔵野病院の歴史(沿革)」(東京武蔵野病院
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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