記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】1月29日

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1月29日の太宰治

  1947年(昭和22年)1月29日。
 太宰治 37歳。

 それまで同居していた小山清が、職業安定所での募集に応じ、夕張炭鉱に出発し、北海道夕張市福住三区の第九寮に落ち着き炭鉱夫となった。

太宰と小山清

 小山清(こやまきよし)(1911~1965)は、東京府東京市浅草区新吉原(現在の、台東区千束)生まれの小説家で、太宰の弟子です。生家は兼東楼という貸座敷業を営んでいましたが、盲目の父親・兼次は、家業に関係せず、「越喜太夫」と名乗る義太夫語りでした。
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 小山と太宰が出会ったのは、1940年(昭和15年)。小山が29歳の時でした。
 自作原稿を携えて三鷹の太宰宅を訪ねて以降、太宰に師事。その当時仕事にしていた新聞配達の(かたわ)ら、文筆活動に励み、太宰に原稿を見てもらっては批評を受けていました。

 小山は、著書『二人の友』に、太宰と出会った時の様子について記しているので、引用してみます。

 私が太宰治という作家に強く関心を持つようになったのは、昭和十四年、単行本「女生徒」が出版された頃である。その頃、私は下谷竜泉寺町で新聞配達夫をしていたが、休みの日に、神田の古本屋で、再版の「晩年」と中原中也の「在りし日の歌」とを見つけ、どちらにしようかと迷った末に、「晩年」を買って帰った。私はこのとき初めて「晩年」を読んで惹きつけられた。その後、その春「文芸」に掲載された「懶惰の歌留多」を読んで心がきまり、単行本「女生徒」が出たときには、私はその本をすぐには買わなかったが、奥附(おくづけ)にしるしてあった、太宰さんの甲府御崎町の住所は記憶にとどめておいた。
 翌十五年の秋の末、私は初めて三鷹下連雀に未知の太宰さんをたずねた。しばらく前に、太宰さんが甲府から三鷹に移ったことを新聞の消息欄で知った。
 太宰さんとしては、前年のはじめに新しく結婚して、それまでの多事多難であった生活から平穏な家庭生活に入った時期であった。単行本「女生徒」には第四回北村透谷(きたむらとうこく)賞を受け、「駈込み訴え」「走れメロス」「女の決闘」等の作品が次々に発表され、十年間の東京生活を回想した太宰さんにとっては「一生涯の重大な記念碑」である「東京八景」も既に完成されていた。
 太宰さんは初めてたずねた私に気がるに会ってくれた。恰度(ちょうど)清貧譚」を執筆していたときで、机上には、公田連太郎原註、田中貢太郎訳の「聊斎志異(りょうさいしい)」の頁がひらいてあった。原文を読んでいると、いろんな空想が湧いてきて楽しいと太宰さんは云った。
 それから、太宰さんは私の問いに答えるというでもなく、自分からこんなことを云った。
「生活には弱く、文学は強く。そんなふうに思っているのです」
 ちょうど太宰さんが、新潟の高等学校から招かれて講演に出かけ、ついでに佐渡に遊んだ直前のことであった。二度目にたずねたときに、太宰さんからその話をきいた。
  翌十六年の一月号の諸雑誌には、「清貧譚」「東京八景」「みみづく通信」「佐渡」等の作品が一斉に発表された。雑誌をひらいて、「東京八景」のサブタイトルの(苦難の或人(あるひと)に贈る)という言葉を目にしたときの気持を私はいまも忘れることが出来ない。
 十六年の二月頃、三度目の訪問したときには、太宰さんは「新ハムレット」の書下しにととりかかっていた。私が志賀さんの「クローディアスの日記」のことを口にしたら、太宰さんは自分の書こうとしているものはもっと新味のあるものだという意味のことを云った。新しく仕事にとりかかる前には、太宰さんはいつも激しい意気込みを見せていた。
「ぼくのハムレットは手が早くてね、オフィリヤは妊娠しているんだよ」
と太宰さんは笑いながら云った。
 四度目にたずねたのは六月で、長女の園子さんが生れてまもないときであった。知らずにたずねた私は、床の間に井伏としるした祝いの品が置いてあるのを見た。隣室からの赤子の泣声がきこえた。その夜、太宰さんは私を三鷹駅前の喜久屋という小料理屋に連れて行った。それからはたずねると、太宰さんのお伴をして、三鷹、吉祥寺界隈の呑み屋を歩くのが習慣になった。
 その頃、筑摩書房から出版された、チェホフとゴルキイの往復書簡集を私に送ってくれたことがある。この本は「風の便り」を書く上に参考にしたのであろう。
「チェホフの方が用心してつきあっている感じだね」
と太宰さんは私に向って云った。

 太宰と親交を深めていった小山は、1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲罹災(りさい)し、 太宰宅に駆け込みます。そんな小山を太宰は、「一緒に勉強しよう」と言って、快く受け入れたそうです。
 同年4月2日未明、太宰が疎開するきっかけになった空爆を、同じく弟子の田中英光(たなかひでみつ)と3人で体験します。
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■小山と同じく太宰の弟子の一人・田中英光(1913~1949)
 小山は太宰に、妻・美知子の実家である甲府への疎開を提案。太宰の疎開中は不在を守り、1947年(昭和22年)1月末まで太宰宅に住んでいました。

 これらのエピソードも、先程と同じく、著書『二人の友』から紹介します。

 昭和二十年三月十日に、東京の下町にB29の襲撃があり、その時、下谷竜泉寺町で罹災した。四五日たってから、私は三鷹の太宰さんの(もと)をたずねた。太宰さんは笑いながら「いたましき罹災者か」と云って、私をむかえた。私はこの際三鷹に引越してきたいと思い、この近所に貸間はないだろうかと太宰さんに訊いた。その頃、私は三河島の意ある軍需会社に徴用されていた。三鷹にきては少し遠くなるが、通勤できないという距離でもなかった。いいあんばいに、太宰さんの向いの隣りの家で、玄関わきの小部屋を私に貸してくれた。太宰さんは私に向い、「一緒に勉強しよう」と云った。太宰さんは「お伽草紙」の仕事にとりかかっていて、引越してきた私は、太宰さんの机上に「前書き」と「瘤取り」の書出しの部分が二三枚書きかえてあるのを見た。
 三月末に、奥さんとお子さん達は甲府の奥さんの里に疎開して、私は間借り先から太宰さんの家に移った。四月二日未明に、家の近所一帯が爆撃にあった。時限爆弾なるものをはじめて使用した空襲であった。偶々、その頃横浜にいた田中英光がその前の晩に来合わせて泊り込んでいて、三人は防空壕に避難したが、壕の土が崩れてきて半身埋まり、危く命拾いした。爆撃のため家が半壊したので、太宰さんと私は四五日、吉祥寺の亀井勝一郎氏のもとに厄介になった。私は太宰さんに、三鷹の家には私が残るから、奥さんの里に行ったらどうかと提案してみた。太宰さんはほっとした面持で、「きみも時々遊びにくればいいね」と云った。太宰さんは気が弱く、自分からはそういうことを云い出せる人ではなかった。「お伽草紙」の草稿は、私が下谷から移ってきた時のままのようであった。田中英光がその書きかえを読んで、「(うま)いなあ」と感歎したのを私は覚えている。

 小山は、1947年(昭和22年)の今日、約2年間住んだ太宰宅を離れ、炭鉱夫として夕張炭鉱で2年ほど過ごしますが、太宰はこの時期に亡くなります。

 夕張から戻った小山は、太宰に預けていた原稿が売れるようになり、1952年(昭和27年)に「文學界」に発表した『小さな町』や、「新潮」に発表した『落穂拾ひ』など、清純な私小説で作家としての地位を確立。1951年(昭和26年)に『安い頭』が第26回芥川賞候補に、1952年(昭和27年)に『小さな町』が第27回芥川賞候補に、1953年(昭和28年)に『をぢさんの話』が第30回芥川賞候補に挙げられるなど、何度も芥川賞候補に名前を連ねています。

 【了】

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【参考文献】
小山清『二人の友』(審美社、1965年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・公益財団法人三鷹市スポーツと文化財団 編集・発行『平成三十年度特別展 太宰治 三鷹とともに ー太宰治没後七十年ー』(2018年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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