10月22日の太宰治。
1945年(昭和20年)10月22日。
太宰治 36歳。
十月二十二日付発行の「
『パンドラの匣』連載開始
1945年(昭和21年)7月31日から、三鷹、甲府を経て、故郷・金木町へ疎開していた太宰は、同年9月20日頃に、宮城県仙台市にある新聞社・
太宰は、同年9月30日、「作者の言葉」とともに、『パンドラの匣』20回分、80枚近くを村上宛に送付。同年10月18日には、21回から40回分までを村上宛に送付するという、速いペースで作品を書き進めていきます。
同年10月20日。「
「社告」では、「津軽の作家太宰治氏の登壇を促した」理由として、洒脱でおおらかな作風は薫り高い太宰文学として読者に敬愛されていること、久しく停滞期にあった文壇と読書界に生新の気を注入するには最もふさわしい郷土の作家であることが挙げられました。
また、作品については「たぐいなく愉しい純文学のお手本を示して、われら行人に呼びかけながら、明日の文壇をさえ揺り起そうと本紙のために書き下ろした労作」だと紹介しています。
そして、「社告」と「作者の言葉」が掲載された2日後の、同年10月22日。「河北新報」と「東奥日報」とで、『パンドラの匣』の連載が開始されました。
『パンドラの匣』は、太宰の初の新聞小説であるとともに、戦後の第1作目でもあります。新聞小説を意識したのか、連載4~6回ごとにタイトルが付けられ、テンポよく進んでいきます。序章ともいえる部分のタイトルは「幕ひらく」。物語の「幕開け」というだけではなく、「戦後の新しい社会がスタート」したことを、希望を持って宣言しているようにも受け止められます。
■金木の芦野公園にて 1945年(昭和21年)撮影。
同年10月29日、東奥日報社の印刷工場が復興し、翌10月30日付「東奥日報」から印刷が再開されたため、10月29日付『パンドラの匣』第八回を最後に、「東奥日報」への連載は中断されました。
「河北新報」では、翌1946年(昭和21年)1月7日付まで、64回にわたって連載され、完結を迎えました。この間、11月22日、24日、12月1日、8日、12日、16日、20日、21日、23日、27日は休載、1月2日は休刊でした。
【了】
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【参考文献】
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・須永誠『太宰治と仙台 ー人・街と創作の接点』(河北新報出版センター、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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