記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】10月28日

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10月28日の太宰治

  1942年(昭和17年)10月28日。
 太宰治 33歳。

 八時青森着、十一時頃五所川原着、旭町七十一番地の中畑慶吉(なかはたけいきち)宅で一休みのあと、金木の生家を訪れた。

美知子、初めての金木

 1942年(昭和17年)10月20日、三鷹の太宰宅を北芳四郎(きたよししろう)中畑慶吉(なかはたけいきち)が訪れ、故郷の太宰の母・津島夕子(たね)が重態のため、津島家の人々と面識がなかった妻・津島美知子と長女・津島園子を伴って帰郷するように勧められました。
 1週間後の10月27日、太宰は、義妹の石原愛子に留守番を託し、19時に上野発の急行に乗り、翌10月28日の8時に青森着、同日11時頃に五所川原に到着しました。
 この時の様子を、美知子の回想の太宰治収録の『初めて金木に行ったとき』から引用して紹介します。

  昭和十七年の秋、私は初めて太宰の生れ故郷の金木に行った。母が重態なので生前に修治とその妻子を対面させておきたいと、北、中畑両氏がはからってくださったのである。これが十月の下旬で、十二月二十日に母は死んだから、いま思えばまことに時を得た配慮であった。私としても夫の母なる人に会わず仕舞では心残りだったと思う。なんといっても苦労人の両氏は有難い存在であった。

 

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北芳四郎(きたよししろう)中畑慶吉(なかはたけいきち)

 

 出発までの一週間というもの、準備に追われた。私の妹が手伝いに来て留守番もひき受けてくれた。一日三越に行って、わが家始まって以来の、そして太宰の大きらいな買物をした。郷里の女性たちには年齢に合わせて色ちがいの帯締五円の品を何本も買い、私は九十五円也の駒撚(こまよ)りお(めし)を買ってもらった。まだ駒撚りの出始めで呉服売場でもそれは高級品の部類であった。それから流行の黒いハンドバッグも。
 私が太宰に着物その他身につける品を買ってもらったのは、あとにもさきにもこのとき一度だけである。「私」を「女性」と置き換えても恐らく通ずることだろう。太宰は結婚後、自分の得た金で(中畑さんを煩わさずに)それまでに何枚か着物を作っていたが、一緒に買物に行っても、けっして「お前にも何か」とは言ってくれず、婦人ものの売場の前は大急ぎで通過してしまう。以前のように中畑さんから届いた衣類をすぐ質入れして飲み代に換えることは絶えてなくなり、自分で自分の着物を買う気になっただけでも喜ばなくてはならなかったのだが、私にはやはりそれが不平だったので、このときとばかり高級品を買わせて鬱憤をはらしたのである。
 上野駅まで妹が一歳四ヵ月の長女を負うて送ってくれ、北さんと落ち合って出発し、翌日のひる近く五所川原に着き、中畑さんのお宅で着換えさせてもらって津軽鉄道に乗り込んだ。初めて見る津軽鉄道の機関車は「弁慶号」というような時代のものだったから、私はおもしろくて同行の人々の顔を見たが、誰も機関車などに目もくれず、太宰などは緊張のあまりこわい顔をしている。この鉄道は兄が敷設したのだと太宰がかねがね大変自慢していたので、いま「弁慶号」のようなのを目前にして私は意外に思ったのである。

 

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■弁慶号 

 

 中畑さんを先頭に一行は裏口から太宰の生家ヤマゲン(著者注:"へ"の下に"源")に入った(駅とゆききするのは近道なのでだれも裏の畑を抜けて裏口から出入りする)。広いタタキが表まで通っていて右側に板の間や座敷が並んでいる。顔の合った人に挨拶しようとする私を北さんは手で制してずんずん奥まで入って行く。私は狐につままれたような気持で(したが)った。奥座敷に入って(あによめ)らしい人が黙ったまま床の間の左手の唐紙を開くと、一間四方の金色燦然たる大仏壇が現れた。この家では家族への挨拶より先に仏様を拝むしきたりだと知った。そのあと広い板の間から一段上の座敷で控えていると、板の間をいったり来たりする人々の姿が目に入る。そのなかで太宰によく()た人、というよりも太宰の諸特徴を一まわりずつ増大したような和服の人を、私はこの家の主人とばかり思って待機していた。そこに和服に前垂れをしめて一見まるで太宰に肖ていない人が前屈みにふいと入ってきて、入り際に会釈した。それが太宰の長兄で、私が長兄と思っていたのは次兄であった。私は少なからずどぎまぎ、へどもどしてしまって傍の太宰の不機嫌を感じ、来る早々失敗したことを悔やんだ。

 

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■津島家の仏壇 2011年、著者撮影。

 

 しかしそれまで写真を見たこともないのに、知っているのが当然だというのは無理である。私は太宰の頭の上がらない長兄と聞いていたので、太宰の特徴を上まわる人にちがいないと単純に考えていたのである。初対面のもの同士を紹介しないのもよくない。そのためにこのとき私のことを怒った太宰であるが、昭和十九年の津軽旅行のときには自分の生まれた家で初対面の人から「あなたは誰ですか」と問われて、したたかしょげるはめになったのだ。
 北さんも中畑さんもどこかへ姿を消して心細くなっていると、祖母が奥から現われて、立ったままはっきりした声で「よく来たな、めごいわらしだ」とよちよち歩きまわっている園子にまで愛想をふりまいた。
 母は離れの座敷のベッドに寝ていた。蒼みがかった頬、黒い大きな眼、濃い長い(まつげ)、美しい人であった。次の間には火鉢を中に叔母、次兄の嫂、姉、カネマルのあっちゃと呼ばれている中年のおばさんらが集まっていた。五所川原の叔母もやさしいきれいな人で、ほんの少ししか唇を動かさないで何かと話しかけてくれた。

 

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■太宰の母が寝ていた離れの座敷 2018年、著者撮影。

 

 私たちは二、三時間見舞してすぐ五所川原に引き上げるつもりでいたのだが、兄と、北、中畑両氏の間でどういう話になったのか、夕食の知らせで仏間の隣座敷に入ると、五所川原の分家の主で歯科医院を開業しているので先生と呼ばれているモーニングの人が来ていて、北さんも加わり夕食を共にした。「先生」は一番大切な分家の当主として親戚を代表して、修治の妻子を伴っての見舞のための帰郷を、略式ながら公認するために急遽よばれて駈けつけたらしかった。兄と北さんの間では、立場とか体面とか難しい話もあったらしいが、(あによめ)がなんのこだわりもなく、引き廻してくれるので助かった。夕食後(あによめ)は母屋の一番表通りに近い座敷に案内して、便所が近くて便利だからここに泊まるようにと言った。太宰が子供のころ勉強部屋だったというその八畳間は、窓の外はすぐ煉瓦塀の裏側に面し、隣室はリノリュウムを敷き隅に金庫を据え、カウンターがあって事務所風で、小作人との交渉の行われる部屋のようであった。
 その翌日から母の病室で大部分の時を過ごした。母は静かな病人で蝋燭が燃えつきるようにじりじりと生命力が消えてゆくように見えたが、意識ははっきりしていて、時々話しかけてくれるのだが、聞きとり難かった。

 

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■太宰の母・津島夕子(たね)

 

  ある夜、看護婦が体温のことか何かを病人に聞いた。「それはお前たちがわきまえているべきことではないか」。母の言葉は静かだがきびしく、看護婦は二人ともしゅんとしてうなだれ、私もうなだれ、胸にその、母が看護婦を責めた言葉だけがはっきり残った。もっと母と話を交せたらよかったのに――。ふつうの嫁、(しゅうとめ)の間柄ではなかったけれども、会っていながら言葉による交情のほとんどなかったことはさびしい。
 祖母が真夜中に杖にすがってこの病室まで見舞に来たことを、ある朝、(あによめ)が皆に話していた。祖母の足では渡り廊下づたいにかなりの道のりで段々もある。九十近くなって七十の娘を見舞う祖母の心境はどんなものだろうと皆で語り合っていた。私は(あによめ)が昼間は医師や見舞客への応接に追われ、夜中みなが寝入る時間に病人の看護に当たるのかとつくづく感心した。滞在の予定ではなかったので、私はふだん着は持ってきていない。カネマルのあっちゃが私の羽織をちょっと貸してくれといって持って行って、それから僅かの間に(あによめ)の紫地の銘仙(めいせん)の絞りの羽織を私の寸法に仕立直してくれて、文庫蔵の二階で縫ったのだと言った。あっちゃの早わざと、(あによめ)の配慮に感心した。
 服装については私は初めての土地とはいえ、失敗していた。新調のお召は道中に着て、初対面のときには小紋の上に黒の紋付羽織を重ねていたのだが、その薄色の小紋はこの北国に来てみると寒々しく白々しくまるで周囲にそぐわなかったし、園子も寒い土地ではあり、年寄りの気に入るようにと綿入れを新しく作って着せていたが、着ぶくれて恰好わるく洋服でよかったのだった。失敗だらけだ――と私は悔やんだ。田舎とはいえ、この家の方が三鷹よりいろいろの点で進んでいた。
 夜、あてがわれた部屋にひきとってから太宰は、私のこの家の初印象を聞きたがり、その気持をくんで讃辞を並べたのだけれども、彼はなお不満の様子だった。
 それまで生家については、太宰からいろいろ聞いていたが、ただ、広い、大きい、立派だ、てんで比較するものがないといった自慢のくり返しばかりで、少しも具体的ではなかったし、「思い出」の舞台として強く印象に残るのは文庫蔵の前の廊下、台所の囲炉裏ばたくらいで、あとは戸外である。太宰の熱のこもった北国の大きな生家の話を聞いているうちに、愚かな私の空想ははてしなく拡がっていって、小公子が祖父の公爵の城に迎えの馬車で乗りこむ。城門を通過してからも鹿や兎の遊ぶ並木道を何マイルも走ってやっと玄関に着く、その情景を連想したことがあった。大変ロマンチックに田園調に想像していたのである。

  

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■台所(板の間)の囲炉裏 2011年、著者撮影。

 

 また誰でもかつて自分が見たり聞いたりしたものが想像の核心になるのが普通であるが、私が以前見た地方の豪家は、その家の歴史についてはよく知らないが、東西、南北とも、四、五十間(約八十メートル)の土塀と環濠(かんごう)をめぐらした堂々たるものであった。それ程ないまでも道路から奥まって長屋門を構え、その奥にさらに広く深い前庭をおいて書院造の玄関、塀越しに形よく刈りこまれた庭木や土蔵の屋根と白壁が望まれるのが、私の頭の中に先入観としてあった地主や山持ちの邸の定石で、母屋は厚い瓦をのせた平家建ばかりである。
 ところがヤマゲンは全く私の想像外で、まず二階建て、田舎の旧家風ではなく下町の商家風の構えである。子供のころ、その家の娘が級友なので姉に連れられて行ったことのある甲州製糸王と謳われた下町のY家が一番感じが似ていると思った。太宰の生家のあたりは町の中心部で役場も近いし、警察署、銀行支店、郵便局などが並んでいてけっして農村ではない、また積雪期の長いこの土地で前庭などあったらかえって困るだろう。表から裏まで(はば)二間半はありそうなタタキが十何間と続いていて、三鷹の家などこのタタキのほんの一部に入ってしまいそうだが、ここが冬期、前庭の役を果すらしかった。
 来て見なくてはわからない――そして、生活のすべてに「雪」が、あるいは「冬期」が支配的なのではないかと、私は思った。

 

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■太宰の生家 2011年、著者撮影。

 

 明治末から大正にかけて建てられた住宅は、客間に重点をおいて子供たちは個室を持たず子供部屋に兄弟机を並べ、茶の間を北側におくことなどが多かったようだ。ヤマゲンの茶の間も厨房も北向きでうす暗く、家全体来客向きに設計されていて、客の種類によって応接する場所が、台所の炉端から二階の客間まで何段階にも区別されるらしい。地主で政治家を兼ねる人の住居はこういうものかと感心した。
 茶の間は裏階段の横から入る十畳間で、食事どきには食卓を二つ三つ続けて並べて一同両側に坐った。次兄夫婦、帳場さんもお昼は一緒に食事した。祖母だけひとり床の間を背に脚つきの膳に向かっていた。太宰の子供のころはきっとひとりひとりの膳で食事したのだろう。

 

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■茶の間 2011年、著者撮影。

 

 この茶の間は薄暗くはあったが、古めかしい一種の情緒が漂っていた。床の間には明治調の美人画がかけてあって、落ちついた、秩序のある、よい雰囲気であった。家族以外の食客?が必ず何人かいたし、父は留守がちで、祖母の(しつけ)はきびしく、いまの子供中心の核家族の食卓風景とは大分異なるものではあったろうが、太宰にとってけっして暗いいやな思い出の茶の間ではなかったと思う。何年ぶりかでこの茶の間に坐るというのに、太宰はずっとこの家での生活が続いていたかのような顔をして箸を動かしていた。

 

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■太宰の祖母・津島イシ 「金木の淀君」と呼ばれた太宰の祖母は、1946年(昭和21年)10月16日 に、90歳で長寿を全うした。

 

 この部屋の出入り口に祖母の大きな写真が掲げてある。この写真と実在の祖母の姿とを見ているうちに、この祖母からあの美しくやさしい母と叔母の姉妹が生まれたことがふしぎに思われてきて夜、太宰に語った。ところが、太宰はさっそくその翌日、みち子がこんなことを言ったと、伝えて皆を笑わせた。この大家族の中では九十近い祖母が緩衝(かんしょう)地帯のような存在になっている。祖母の言動が始終話題になり、笑いの種にもなっていた。大家族が円満にやってゆくには、このような老人とか子供などがぜひ必要なのだろう。常居(居間)の台所際に坐るとこの家への人の出入りや家族、奉公人の動向が居ながらにして眼に入る、祖母はひるまはよくこの位置に坐って、もぐもぐと下あごを動かしていた。女中がおつかいに出る姿を見て前掛をはずして行けと注意したりしていた。ある夜、台所の炉端で祖母は周りの若いものたちに昔の話を始めた。長兄文治が少年の頃、眼を患い祖母がつきそって東京の病院に入院したとき、祖母の看病が至れり尽くせりで院長から「看護婦の博士」とほめられたという自慢話、姪たちはまた始まったという表情で顔を見合わせた。須磨、明石と名所を訪れ、永平寺に詣でたときの思い出話、このときは祖母の言うイーフェイジが永平寺とわかるのに何秒か私には必要であった。その話ぶりや、炉端で火に当たっている姿などから、闊達な、積極性をもつ人柄のような印象を受けた。

 

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■太宰と園子を抱く美知子

 

 ある日、園子の手をひいて祖母の起居している小座敷の前を通りかかると障子があけ放されていて、祖母はひとり床の間の前の小さい炉のわきでこちら向きに坐って、白足袋のつくろいをしていた。私はふいと子供を連れてその部屋に入って傍に坐り挨拶した。床の間にセピア色に焼き付けた少年の大きな肖像写真が額縁に入れて立て掛けてある。礼治さんだ! と思ったが祖母に問いかけた。
「ああ、あれか。あれはお前たちの父さんの弟だった人だ」。祖母の答は明快で、私は満足して立ち上がった。写真の主をわかっていながら聞くとは無礼であるが、このとき祖母と何か話を交したくてもほかに適当な話題がなかったし、初めて来た日に快く迎えてくれてはいたが、この家に生まれた修治とちがって、突然現われた私たち母子のことを果して祖母がはっきりわかってくれているのかという懸念も潜在していたのである。ほんとに九十近くになってもはっきりした人であった。礼治が臨終のとき苦しんで、祖母がお念仏を唱えるように言ったという太宰からきいた話が思い出され、夭折した愛孫の写真をいまだに傍におく祖母の胸中が思われた。

 

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■太宰の弟・津島礼治 礼治は、太宰の3歳下の弟。太宰を慕っていたが、太宰19歳の時、鼻の手術の後に敗血症に冒され急逝した。

 

(

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※画像は、上記参考文献より引用しました。
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