10月31日の太宰治。
1935年(昭和10年)10月31日。
太宰治 26歳。
十月三十一日付で、井伏鱒二に手紙を送る。
「難関をひとりで切り抜ける覚悟」
1935年(昭和10年)10月31日付で、太宰は師匠・井伏鱒二に宛てて手紙を投函します。
この頃の太宰は、同年4月4日に発症した急性虫様突起炎と、併発した腹膜炎の鎮痛のために打たれたパビナール注射の中毒に悩み、同年8月10日に希望としていた第一回芥川龍之介賞の落選を知り、「文藝春秋」九月号に掲載された川端康成の「道化の華」評、「私見によれば、作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざるの
千葉県船橋町五日市本宿一九二八より
東京市杉並区清水町二四
井伏鱒二宛
拝啓
きょうは三十一日で、月末のやりくりの苦しみで、たいへんでした。うちからは、だんだん送金を、へらされるし、きょうは、あちこち電話をかけたり、手紙を書いたりして路をあるきながら涙が出て、うちへはいってから、わんわん声たてて泣きました。
あんまりくやしくて、もう、病気がぶりかえしても、かまわんと、ビイルを飲んで、午後四時ころ寝てしまいました。月末の苦しさが身に徹してこたえました。こんな日が、十日もつづくと病気がぶりかえすのが判っています。いまでさえ、私、少し熱が出たようで、工合いよくないのです。国の兄さんのほうでも、ことし一年くらいは、のんきに保養させて下さるのか、と私、ひとり合点して、それなら、小説のほうも、ゆっくりかまえて、いいものを創ろう、と思っていたのですが、だめでした。このぶんなら、また、私、方針を変えなければなりますまい。ふと、眼がさめたら、夜中の十時でした。それまで、むりにも眠っていたのです。女房にたずねると、ほうぼうの払いは、しばらく待ってもらうことにした由、起きてひとり、めし をたべたら、ふっと、井伏さんと井伏さんの奥さんと二人居ればいいなあ、という意味ない呟きが口から出て、また、泣きました。
■太宰と妻・小山初代
船橋は静かすぎます。蟲の声と電車の音。
■船橋の太宰宅 太宰は1933年(昭和10年)7月、建てられたばかりの船橋の新居に移り住んだ。太宰はのちに、小説『十五年間』の中で「私には千葉県船橋町の家が最も愛着が深かった。」と書いている。
きょうは、煮えるような苦しみを、なめました。井伏さん。ときどき(
二月 に一度くらいでいゝから)力をつけて下さい。そうでもなければ、私は死にそうです。
こんな筈じゃなかったと、苦しさがむしろ不思議なくらいです。
奥様にもくれぐれもよろしく。
女房が「いつも奥様のことが、念頭から離れたことがない」と言って、私も、それはたいへんいいことだと、ほめてやりました。
生きている限りは、みじめになりたくないのです。なんとかしてこの難関をひとりで切り抜ける覚悟ですから、御安心下さい。
治 拝
井 伏 鱒 二 様
奥 様
三十一日深夜
■井伏鱒二
【了】
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【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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