記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】10月31日

f:id:shige97:20191205224501j:image

10月31日の太宰治

  1935年(昭和10年)10月31日。
 太宰治 26歳。

 十月三十一日付で、井伏鱒二に手紙を送る。

「難関をひとりで切り抜ける覚悟」

 1935年(昭和10年)10月31日付で、太宰は師匠・井伏鱒二に宛てて手紙を投函します。

 この頃の太宰は、同年4月4日に発症した急性虫様突起炎と、併発した腹膜炎の鎮痛のために打たれたパビナール注射の中毒に悩み、同年8月10日に希望としていた第一回芥川龍之介賞の落選を知り、「文藝春秋」九月号に掲載された川端康成の「道化の華」評、「私見によれば、作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざるの(うら)みがあった。」の一文を読んで激昂し、これに対する反駁論川端康成へ』文藝春秋社に投稿するなど、荒れていた時期でした。

  千葉県船橋町五日市本宿一九二八より
  東京市杉並区清水町二四
   井伏鱒二

 拝啓
 きょうは三十一日で、月末のやりくりの苦しみで、たいへんでした。うちからは、だんだん送金を、へらされるし、きょうは、あちこち電話をかけたり、手紙を書いたりして路をあるきながら涙が出て、うちへはいってから、わんわん声たてて泣きました。
 あんまりくやしくて、もう、病気がぶりかえしても、かまわんと、ビイルを飲んで、午後四時ころ寝てしまいました。月末の苦しさが身に徹してこたえました。こんな日が、十日もつづくと病気がぶりかえすのが判っています。いまでさえ、私、少し熱が出たようで、工合いよくないのです。国の兄さんのほうでも、ことし一年くらいは、のんきに保養させて下さるのか、と私、ひとり合点して、それなら、小説のほうも、ゆっくりかまえて、いいものを創ろう、と思っていたのですが、だめでした。このぶんなら、また、私、方針を変えなければなりますまい。ふと、眼がさめたら、夜中の十時でした。それまで、むりにも眠っていたのです。女房にたずねると、ほうぼうの払いは、しばらく待ってもらうことにした由、起きてひとり、めし(、、)をたべたら、ふっと、井伏さんと井伏さんの奥さんと二人居ればいいなあ、という意味ない呟きが口から出て、また、泣きました。

 

f:id:shige97:20200716131453j:plain
■太宰と妻・小山初代

 

 船橋は静かすぎます。蟲の声と電車の音。

 

f:id:shige97:20200820125752j:plain
船橋の太宰宅 太宰は1933年(昭和10年)7月、建てられたばかりの船橋の新居に移り住んだ。太宰はのちに、小説十五年間の中で「私には千葉県船橋町の家が最も愛着が深かった。」と書いている。

 

 きょうは、煮えるような苦しみを、なめました。井伏さん。ときどき(二月(たつき)に一度くらいでいゝから)力をつけて下さい。そうでもなければ、私は死にそうです。
 こんな筈じゃなかったと、苦しさがむしろ不思議なくらいです。
 奥様にもくれぐれもよろしく。
 女房が「いつも奥様のことが、念頭から離れたことがない」と言って、私も、それはたいへんいいことだと、ほめてやりました。
 生きている限りは、みじめになりたくないのです。なんとかしてこの難関をひとりで切り抜ける覚悟ですから、御安心下さい。
          治 拝
  井 伏 鱒 二 様
     奥 様
   三十一日深夜

 

f:id:shige97:20201001210851j:plain
井伏鱒二

 【了】

********************
【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************

【今日は何の日?
 "太宰カレンダー"はこちら!】

太宰治、全155作品はこちら!】