記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】11月2日

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11月2日の太宰治

  1942年(昭和17年)11月2日。
 太宰治 33歳。

 美知子、園子と共に五、六日生家に滞在したが、明日帰京と決まった日の午後、美知子、園子を連れて芦野(あしの)公園に遊び、十一月上旬に帰京した。

明日帰京と決まった日の午後

 1942年(昭和17年)10月20日、太宰は、北芳四郎(きたよししろう)中畑慶吉(なかはたけいきち)から故郷・金木町の太宰の母・津島夕子(たね)が重態だということを聞き、津島家の人々と面識がなかった妻・津島美知子と長女・津島園子を伴って、8日後の10月28日に帰郷しました。美知子は「二、三時間見舞してすぐ五所川原に引き上げるつもり」でしたが、5~6日間、太宰の生家に滞在することになりました。
 今日は、10月28日の記事に続き、金木町での滞在から三鷹に帰京するまでの様子について、美知子の回想の太宰治収録『初めて金木に行ったとき』から引用して紹介します。

 次兄夫妻は近くの分家から毎日勤めのように通ってくる。朝、台所の炉端に祖母を坐らせて、古風な洗面結髪の用具で次兄の(あによめ)が念入りに祖母の髪を結って上げている姿など、過ぎし昔の絵巻のようであった。姉も毎日顔を見せるし、叔母もずっと滞在している。女性たちは言い合わせたように鹿の子絞りの半襟をかけて三十代から六十代まで年齢に応じて紫、茶、鼠と色変わりにして、それが色白の肌によくうつって、なんともいえない暖かい上品な色気をこのくすんだ大きな屋台骨の下にかもし出している。私の白羽二重の半襟のなんと色気がないことか。それは東京ではあたり前の風俗だったけれども北国では白はもちろん寒色の衣料や塗らない木地のままのものなど敬遠されるらしいのである。

 

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■太宰の次兄・津島英治

 

 女中たちは小学校を卒業したばかりにみえるのから二十歳くらいまで五、六人いて、みな色白の下り眉、撫子(なでしこ)のように可憐であった。木綿の着物を裾短かに着てモンペははかず、防寒とおしゃれを兼ねて毛糸編みの袖口とストッキングとをのぞかせ、藁草履(わらぞうり)を履いて働いていた。彼女らは裏口に近い、タタキの向う側の坊主畳の広い部屋に寝起きして、朝の仕事を終ると下の流しで笑いさざめきながら洗面し、柱鏡で髪をとかしている。のびのびと楽し気で、東京の山の手のお邸の女中の方がよほど封建的な型にはめられているように感じた。
 女中たちのほかに体格のよい中年の女性がアパとよばれ、通いできていて、畠仕事その他若い女中のできない仕事をひき受けていた。アパの弟がアヤで通いの男衆であるが、この姉弟は大変有能な上に十分馴れていて、ヤマゲンにとって大切な裏方さんであるらしかった。食事は台所の一隅にゴザを敷いて、奉公人たちはそこで一緒に食べていた。
 滞在中に月が変わり十一月初めのある日、小作人の女房らしい白い布を頭に被った人たちが、続々と包みを提げて裏口から入ってきた。収穫を祝って新米で()いた餅を配る日なのだった。(あによめ)は餅の包みを受けとると文庫蔵にまっすぐ入って餅を置き、代りに瀬戸ものか何かを女房に渡す。この日嫂は台所の上り口と文庫蔵の間を何回往復したことだろう。出入りが一段落すると、台所の炉端でアヤを相手に秋餅の荷造りが始まる。アヤがかねて用意の木箱に丸い餅をつめ、(あによめ)は荷札を書く。三鷹に毎秋届いた秋餅の送り出される過程を私は初めて見た。
 冬籠りの支度も今や(たけなわ)となり、アパは漬物の仕込みに大童(おおわらわ)である。やがてアパは裏の畑の一隅から貝細工や千日紅、鶏頭などを抱えてきて、叔母は炉端で一本一本、それをていねいに揃え、いくつかの花束にして文庫蔵の横手の渡り廊下の腰羽目(こしばめ)の釘に花を下にして懸け並べ、これで冬中の仏さまのお花の用意も出来たと安堵のおももちである。仏花を絶やさぬために自然のドライフラワーを用意して来春まで使いのばすのである。仏さまのお花までもと私は驚いてしまった。
 表通り向こうの畠の葡萄棚から葡萄も一度に採りこまれ、(あによめ)がていねいに選別していた。それは黒い西洋種の葡萄だった。

 

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■太宰の母・津島夕子(たね)

 

 母の容態に急変もなさそうで明日帰京ときまった日の午後、太宰がいいところへ連れて行ってやる、遠いから園子はおぶって行く方がよいと言った。太宰が散歩に誘い出してくれるとは珍しい、(あによめ)からねんねこ半天を借りて、私はどこへ向かうのかも知らず、いそいそと従った。

 

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■太宰と園子を抱く美知子

 

 親戚の経師屋(きょうじや)の角を曲がって、その隣がヤマイチ(著者注:"人"の下に"市")の印刷所、「青んぼ」(太宰が中学生のとき、三兄圭治が中心となって発行した同人誌)はここで刷ったのだそうだ。「高橋ヴァイオリンの家だ」と通り過ぎたのは土蔵のある、間口の広い呉服店で、この高元呉服店のおじの高橋さんは太宰の小学校以来の旧友のヴァイオリニストである。境遇に共通するところがあるのか、よく三鷹に訪ねてきてしんみりと話していた。
 高元のさきの南台寺の前を通り過ぎ右へ折れたあたりで、太宰は足をとめて「エビナの馬鹿だ」と言った。二、三百坪程の広さに一面クローバーが茂り、紅花サルビアが楕円形に植えこまれその対照が美しく、童話的な眺めである。
 このへんはもう町はずれで左手の奥まった平家に、太宰はつかつか入って行った。
「あれ、修ちゃ、園ちゃんも」
 土間の鶴の丸の定紋を染め抜いたのれんを掲げて、姉が笑顔を見せた。すらりとした姉は、女形の舞台姿を見るようである。上がってゆくように勧められたが辞退して出て、さらに北へ向かった。
 もう人家がとぎれて道の両側にはアカシアに似た灌木(かんぼく)が茂り、たんぼの間をまっすぐ北に通っているこの道はどうも新道らしく思われる。農家らしいのもあるが、武蔵野の農家には必ずといってよい位、竹藪ややしき林があって厚い草葺屋根と相俟(あいま)ってその背戸(せど)は陰気な、むさ苦しい印象なのに、この道に沿った農家にはその暗さが無く、まるで北海道の開拓地を歩いているような気分である。

 

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■芦野公園

 

 道は爪先上がりになって右手の一段高いところに、金木小学校の二階建ての校舎が見えた。校門の前を通り過ぎてやがて松林に入った。ここが今日の目的の「芦野(あしの)公園」であった。前からこの名勝のこと、芦野水海とよばれる大きな溜池のこと、上野駅の出札口でねばってとうとう、津軽鉄道の「芦野公園駅」行の切符を入手した金木の名士の逸事のことなど太宰からは聞いて知っていたが、松林の中に立っている記念碑によって、この時初めて、この地が太宰が一年学んだ明治高等小学校の、ひいては「思い出」の故地でもあることを私は知った。
 廃校されてから既に久しく、碑文にある通り、松風が空く在りし日の少年たちの声を伝えているのみである。
 五月初めの観桜会、夏のボート遊びに賑わうというこの公園も、十一月の午後、全く人影がなく、太宰も私も口少なになってしまった。松と桜の林の奥に大きな溜池が静まり返っていた。一隻ボートがつながれている。その池の堤に腰をおろしてしばらく休んだ。
 引き返してヤマゲンの玄関を入ったときには、もうたそがれ近くなっていた。

 

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■芦野公園にて

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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