11月3日の太宰治。
1932年(昭和7年)11月3日。
太宰治 23歳。
太宰の留置とペンネーム「太宰」
1932年(昭和7年)11月、太宰の義弟・小舘善四郎の次兄・
この頃、この廃屋に似た大きな屋敷へ、毎晩のように若い男達が頻繁に出入りしている事に疑問を抱いた近所の人が、高輪署に投書したとかで、太宰は小舘とともに杉並署(?)に出頭を命ぜられました。太宰が借りて住んでいたのは、江戸幕府の歩兵奉行で、工部大学校校長、学習院院長、清国特命全権公使を歴任し、男爵であった大鳥圭介の旧邸の一部で、ある銀行の担保になっていましたが、留守管理人が小遣い稼ぎのために、銀行に内緒で貸したものでした。
■芝区白金三光町の邸宅
太宰と小舘は、別々に調べられ、小舘は一晩、太宰は二晩留置されたそうです。留置されている間に、検事が臨検に来て家宅捜索を行いましたが、部屋には聖書以外に本らしきものは置かれていませんでした。この時は、太宰と同居していた
■飛島定城と妻・多摩 新婚の頃。飛島は、東京帝国大学を卒業した後、東京日日新聞(現在の毎日新聞社)へ入社して社会部の記者に。同じ五所川原出身の佐々木多摩と結婚した。1931年(昭和6年)撮影。
また、この頃、太宰は『魚服記』の初稿を脱稿しています。脱稿直後、ちょうど訪れた弘前高等学校時代の後輩・津久井信也に『魚服記』を朗読して聞かせました。
やがて、2人の雑談はペンネームの話題になり、太宰が4つ5つの名前を書いて見せ、意見を求めて来るので、津久井は「こんなのも面白いね」と言って、「太宰」と書いて見せたそうです。その時、津久井は、久しく会っていない旧友・太宰友次郎の事を思い出していたそうです。しかし、「太宰」の姓に対し、太宰は特にこれといった反応は示さなかったと言います。
のちに、津久井は、奉天の書店で、太宰の処女短篇集『晩年』を手にし、太宰が「太宰」のペンネームを使用している事を知り、かつての席の情景を偲んだそうです。
太宰のペンネームの由来については、1月3日の記事で紹介しましたが、ペンネームを決める際、津久井との会話は、太宰の記憶にあったのでしょうか。
【了】
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【参考文献】
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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