11月4日の太宰治。
1936年(昭和11年)11月4日。
太宰治 27歳。
太宰の入院中の三十一日間、毎日「看護日誌」が記録されている。
東京武蔵野病院入院中の太宰②
1936年(昭和11年)10月13日、太宰はパビナール中毒療養のため、
太宰入院翌日10月14日から10月31日までの様子については、10月19日の記事で紹介しています。
今日は、太宰の担当医師に任命された
【11月 1日】
午前6時発熱39度3分、午後3時発熱39度9分。終日床上に横臥し読書。
■体温表 寸法364×257ミリ
【11月 4日】
気分爽快の態で他患者と漫談に打ち興じ、呵々大笑。
この他患者は、隣室の1年前から入院していた甲府の石原という老人。太宰は、石原と意気投合し、石原が「財産を横領されて病院にぶち込まれた」という被害妄想にひどく同情していたそうです。
入院後間もなく、中野嘉一 の計らいで、特別に机、便箋、鉛筆が与えられ、朝日新聞と聖書とを購読。後半からは雑誌の購入も認められていました。
この日、太宰は雑誌「改造」昭和11年11月号(10月22日発売)を入手し、同誌に掲載されていた、佐藤春夫が太宰を批判した実名小説『芥川賞ー憤怒こそ愛の極点(太宰治)』を読んでいます。これは、太宰の原稿を入手したがっていた改造社の鈴木一意か大森直道によって届けられたものと思われます。
のちに佐藤は、「あの作品は遠慮会釈なく本当の事をスバリと云っている。」「何の悪意もなくむしろ深い友情から出た忠告があったつもりである」と回想しています。
しかし、当時の一般読者は、この小説を読んで、太宰は「ひどいデカダンで、それに性格破綻者だ」と受け取ったようです。
【11月 5日】
<井伏『十年前頃』>
青森金木町より津島文治 氏上京。神田、せきね屋に投宿。文治氏より速報あり。
■津島文治
【11月 6日】
<井伏『十年前頃』>
津島文治氏、来訪。小生留守中のこと故に、九日、せきね屋へ電話をかけるよう言置きあり。
【11月 7日】
<看護日誌>
引き続き御同様にて新記入事なし 終日床中読書なされ時々石原氏の傍にて雑談を交えお元気なりき 三食睡眠共に可
【11月 8日】
面会謝絶が解かれ、身元引受人としての長兄・文治と面談した。この時、太宰の妻・小山初代も同伴したそうです。
中野によると、この時、太宰は戯歌 と称して、得意そうに「かりそめの、人のなさけの身にしみて、まなこうるむも、老いのはじめや」という一首を書いて見せたといいます。
<井伏『十年前頃』>
津島文治氏、病院に太宰を訪ね会談す。太宰、久しぶりに文治氏に会いたるなり。(附記――たぶん七年ぶりの対面であったろう。)亡父に会いたるごとしとて、太宰、涙をながし泣き伏したり。初代さんの語る報告なり。
■井伏鱒二
【11月 9日】
長兄・文治とその友人の沢田医師、井伏、北芳四郎 などが、関根屋で、太宰退院後の方策について会談。
<井伏『十年前頃』>
電話をかけ、せきね屋に文治氏を訪ねる。(附記――このときが初対面であった。)文治氏は温厚寛大度なる大人なり。かねがね愚弟の無軌道ぶりに持てあましたりと云う。
北芳四郎氏、沢田医学博士も来着す。文治氏の懸案について一同相談す。北氏は、太宰を郷里に帰すがいいと主張する。強硬なり。沢田氏は、病院長ならびに神経病専門医の診断を仰ぎ、他の病院にうつすべしと主張する。小生は、太宰東京にいるがよろしいと主張する。文治氏は、沢田氏の提案を採用せり。いったん他の病院に移し、しかる後に郷里に永住させるという方策なり。転業を強いる方策ではない。されば太宰も原稿を書く日を持つだろう。小生も賛成す。
北氏、船橋町の薬屋の請求書を秘かに小生に見せる。パビナールの代金、四百円余。但、一箇月分の代金なり。一本の代金は三十銭より五十銭ぐらい。暗然たるもの思わず胸に迫る。アンプールの殻は、大家さん世間を憚 って、穴ぼこを掘りていつも埋めたる由。(附記――薬屋も無謀である。)
【11月10日】
<井伏『十年前頃』>
北氏に電話をかけて連絡をとる。明日午前十時、せきね屋に集合せよとの答えを得る。
【11月11日】
<井伏『十年前頃』>
定刻変更され、午後二時、神田せきね屋に文治氏を訪ね、北芳四郎、中畑慶吉 、初代さんの五人にて、太宰退院後の方策について会議。先日の小生の提案採用のことに一決す。
病院をたずねる。大ぶんよろしいような模様なり。夜になって病院を辞す。
長兄・文治、井伏、北、中畑 、妻・初代の5人が、関野屋で会談。
同日午後、東京武蔵野病院を訪れた長兄・文治と、井伏、北、中畑の3者立会いのもとに、太宰との面会対談は約1時間に及び、午後5時、次のような「修治氏更生ニ関スル約束書」が取り交わされました。この「約束書」は、墨書で「修治氏更生ニ関スル/約束書/昭和十一年十一月十一日」と縦3行に表書きされた和封筒に収められ、縦約20センチメートル、横約60センチメートルの和紙に書かれていました。
<「修治氏更生ニ関スル約束書」>
昭和十一年十一月十一日午後五時武蔵野/病院ニ於テ左記約束ス
甲 ハ 文治
乙 ハ 修治
一、甲ハ乙ニ対シテ只今ヨリ毎/月金九拾円也ヲ給シ ルモノトス
二、乙ハ今迄デノ生活ヲ改メ全然/真面目ナル生活ヲ行フ事
三、(一)ニ定メタル金額ヨリ甲ハ金銭/ハ勿論物品等一切送ラズ
四、此ノ約束ヲ行フ後ハ甲ハ乙/ニ対シテ向フ参ケ年間会ハズ/今迄デ乙ニ対シ ル関係者北氏/中畑氏モ甲ト同ジ行動ス
五、(一)ニ約束セシ毎月九拾円ハ昭和/十四年十月丗日 マデトス以後ハ/全然補助セズ
右 後日ノ為メ如件
甲 側 津島文治
乙 側 津島修治
同 初代
立会人 井伏鱒二/北芳四郎/中畑慶吉
■「約束書」表書き
「約束書」には「約束セシ毎月九拾円ハ昭和/十四年十月
丗日 マデトス以後ハ/全然補助セズ」とありますが、昭和14年10月以降も、津島家から太宰への送金は続けられました。
送金は、1945年(昭和20年)に金木へ疎開した際、太宰が津島家帳場に申し出て辞退し、長年にわたって続けられた仕送りが終了しました。
■津島家帳場 津島家では金融業も行っていました。小作人たちは、このカウンターで帳場さんとやり取りをしていました。2011年、著者撮影。
太宰は、この翌日10月12日に、1ヶ月間に及ぶ入院生活を終え、東京武蔵野病院を退院します。
■太宰と小山初代
【了】
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【参考文献】
・中野嘉一『太宰治ー主治医の記録』(宝文館叢書、1980年)
・『太宰治研究 6』(和泉書院、1999年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・井伏鱒二『太宰 治』(中公文庫、2018年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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