記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】1月31日

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1月31日の太宰治

  1943年(昭和18年)1月31日。
 太宰治 33歳。

 この頃、旅また旅という状態で、「必ず一度は書いて死にたい」と念願していた「右大臣実朝」の原稿に苦心。

太宰の「実朝時代」

 太宰が「必ず一度は書いて死にたい」と念願した右大臣実朝

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■【公暁実朝公を殺する図】「承久元年一月廿七日、実朝公右大臣拝賀の式を鶴ヶ岡八幡宮に行う当日大雪に乗じて公の甥たる別当公暁銀杏樹の蔭より跳り出でゝ公を殺し其身も又倒され源氏の正統全く燃ゆ」『右大臣実朝』のクライマックス。

 執筆中には『鉄面皮』という予告編となる小説を書いたり、刊行前にも実朝について書いた『赤心』を書いたりするほどの入れ込みようです。
 パビナール中毒治療のため、武蔵野病院に入院した時のことを綴った『HUMAN LOST』にも、源実朝についての想いを書いています。

一日。
 実朝を忘れず。

 伊豆の海の白く立つ(なみ)がしら
 塩の花ちる。
 うごくすすき。

 蜜柑(みかん)畑。

  ここまで太宰を(とりこ)にした、源実朝
 念願の『右大臣実朝』執筆を果した太宰ですが、その執筆作業はなかなか難航したようです。その時の太宰について、津島美知子『回想の太宰治からの引用で見ていきます。

 小説「鉄面皮」に、「実朝を書きたいというのは、少年の頃からの念願であったようで、その日頃の願いが、いまどうやら叶いそうになって来たのだから、私もなかなか仕合せな男だ」と太宰が書いている。実朝を書きたい願望を持ちつづけながら、それまで(昭和十七年秋)執筆をためらわせていた理由に、実朝が歴史上の人物であるということがあったのではないだろうか。
 主観のかたまりのような人で、またことさら意識して、「自我の塔」をうち樹てようとした太宰であるが、史実を無視して実朝を書くわけにはいかなかった。
「――その願いが、いまどうやら叶いそうになって――」というのは、まるで天から授かったように、実朝を書くのに絶好のテキストを与えられ、「これがあれば書ける、書こう!」といさみ立って、執筆を決意したことを表わしている。それが「鶴岡」臨時増刊源実朝号(昭和十七年八月九日、鶴岡八幡宮社務所発行)である。同年八月十九日付、戸石泰一氏宛に「――ことしの秋は、例年になく大事な秋のような予感がする。『実朝』も、いよいよことしの秋からはじまる予定――」と書き送ったのは、この「鶴岡」を入手して、間もなくのことと思う。

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■「鶴岡」源実朝

 太宰がなかなか実朝について筆を起すことができなかったのは、書くための資料が揃わなかったことが原因のようです。「鶴岡」の編集後記にも「実朝研究の本は坊間(ぼうかん)なかなか手に入れ難い。金槐集(きんかいしゅう)すら新たに入手することが困難なのが今日の現状である。」とあるそうです。絶好の資料を手に入れた太宰ですが、この「鶴岡」のほかにも、幸運は続きます。
 それは、「龍粛(りょうすすむ)訳注『吾妻鏡(あづまかがみ)』」の第四巻までが、岩波文庫で刊行されていたことです。実朝に関する記述の主要部分を含む第四巻は、太宰が執筆を決意する1年前の1941年(昭和16年)11月末日に刊行されましたが、この本を手元に置くことができたことで、わざわざ『吾妻鏡』の原文と向き合う必要がなくなりました。
 これで、根本的な資料は揃いました。

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■『鶴岡』「源実朝年譜」太宰の書き込みが見られる。

 条件が揃った。あとは書くばかりである。しかし、これがなかなか難航であった。実朝一本に絞るために、約束した新年号の短篇いくつかを書き上げて、三保園(みほえん)に資料を持って出発したあとに、次兄からの母の危篤を伝える電報が届いたので、太宰はその日三鷹へ引き返し郷里に急行した。母の見舞と葬式と法事のために、十月から翌年三月までの間に三回、津軽との間を往復しなければならなかった。「実朝」は三鷹甲府で書いた。三鷹のわが家に、「実朝」であけくれた「実朝時代」とでもいうべき時期があった。一本気の人だから、寝ても覚めても「実朝」で頭がいっぱいになってしまうのである。実朝の年譜から、実朝が自分と同じく母の妹に育てられたこと、頼朝が父源右衛門と同じ五十三歳で(こう)じたことを知って、暗示にかかり易い太宰は、宿命的なものを感じ、実朝が乗りうつったかのようになって、つっ立ったまま、「大日の種子(しゅじ)より出でてさまや形さまやぎやう又尊形となる」、「ほのほのみ虚空にみてるあびじごくゆくゑもなしといふもはかなし」など、実朝の和歌を口誦さんでいる姿は不気味であった。参考文献や書きかけの原稿の一節を朗読して聞かせたこともある。
 十七年の夏に決意して、ようやく翌年の三月末に、三百枚を脱稿するまで、大坪氏と女子社員の米田さんとが、かわるがわる、三鷹を訪れて作者の肩をほぐし、油をさすような感じで激励してくださった。
右大臣実朝」は、十八年九月に刊行された。「正義と微笑」と同じ、藤田嗣治(ふじたつぐはる)の桜花の枝の画の装幀で、国粋的な感じである。錦城出版社にそのような傾向があったか否かは知らないが、当時としては、用紙の割当も潤沢であったと見えて、「実朝」の初版は一万五千部であった(「正義と微笑」は一万部)。それ迄千部台にとどまっていたのに、この数字は著者にとっては嬉しい驚きであった。

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■『右大臣実朝』(錦城出版社、1943年) 装幀:藤田嗣治

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・公益財団法人神奈川文学振興会 編『生誕105年 太宰治展 ー語りかける言葉ー』(県立神奈川近代文学館、2014年)
日本近代文学館  編『太宰治 創作の舞台裏』(春陽堂出版、2019年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※画像は、上記参考文献より引用しました。
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