記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】11月5日

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11月5日の太宰治

  1925年(大正14年)11月5日。
 太宰治 16歳。

 十一月六日付で、自らが中心となり、豊田雄一、中村貞次郎、金沢成造(戸籍名成蔵)、豊田のぶ子、桜田雅美、工藤竹三郎、津島礼治、外崎乾二(戸籍名幹二)、津島修治、越浪義博など、止宿先の若夫婦、弟、級友を同人として、「蜃気楼(しんきろう)」を創刊した。

同人誌「蜃気楼(しんきろう)」創刊

 1925年(大正14年)、青森県立青森中学校3年生の太宰は、11月6日付で、活版刷り同人雑誌蜃気楼(しんきろう)を創刊しました。編集兼発行人は津島修治(太宰の本名)。発行所は、太宰の下宿先である青森市寺町14(豊田方)。印刷所は、青森市寺町72の青森印刷株式会社で、下宿先の筋向いにある大きな印刷所でした。

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■豊田家跡 太宰は中学時代、ここに下宿していた。2020年撮影。

 太宰は、同学年の気心の知れた仲間に呼びかけ、中学1年の弟・津島礼治に、下宿先の若夫婦・豊田雄一豊田のぶ子も加えた同人組織で出発しました。誌名の蜃気楼(しんきろう)は、太宰の命名です。
 会費は、400字詰め原稿用紙3枚まで50銭、4枚以上6枚まで1円でしたが、毎号未払いが多く、印刷・製本にかかる費用の大半は、太宰が支払っていました。発行部数は20~50部で、出来上がると、友人達に配りました。雑誌発行後には、貸家の2階などで合評会を開いたといいます。
 太宰は、毎号創作を発表し、編集後記も1人で執筆するなど、「作家になろう」という願望を具体化するために、情熱を傾けていました。

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蜃気楼(しんきろう)」創刊号

 この頃の太宰の様子について、蜃気楼(しんきろう)の同人で、小説津軽にも「N君」として登場する中村貞次郎(なかむらさだじろう)の回想太宰治の少年時代』から引用して紹介します。

 その当時から作家にあこがれ、情熱を如何に燃やしていたかがうかがわれる。「作家になろう、作家になろう、と私はひそかに願望した。弟もそのとし中学校へはいって、私とひとつ部屋に寝起きしていたが、私は弟と相談して、初夏のころに五六人の友人たちを集め同人雑誌をつくった。」(思い出)――その雑誌は「蜃気楼(しんきろう)」という名であった。太宰がつけた名である。

 

◉アッ蜃気楼が……彼等のうちの一人が海のかなたを指して叫ぶ。「オー」皆がこれに応ずる。蜃気楼――始めのウチはボーとして居る。併しだんだんハッキリして来る。それは暖い田舎家である。そしてその中から楽しげな笑声がもれて来るような気がする。なつかしく、麗しく、又気高く大海原のマンナカに超然として輝いて居る蜃気楼――見て居る彼等の眼は皆、讃頌(さんしょう)の念に輝いて居る。彼等は今、この蜃気楼がまだまだ消えて呉れねばいゝと思って居る。皆そう思って居る。彼等は少しでも永くその蜃気楼を見て居たかったから。

 

「蜃気楼」に彼はこう書いた。このような彼のアイデアが同人雑誌の名になったものと思われる。毎月表紙の装幀は変った。その装幀も太宰がやった。二十頁前後の薄いものであったが活版刷であった。彼が下宿していた家の筋向いに大きな印刷所があった。そこに太宰と同郷の金木町から来た同年輩の友人が働いていたので雑誌を出すのにいろいろ都合がよかったようだ。太宰が四年修了で弘前高等学校へ行ったので自然廃刊となったが、それまで一年四ヵ月続いた。同人も、五、六人から倍の十人位にふえた。素人の同人雑誌が一年以上も続いたのは、太宰がその仕事に熱心で、根気よく原稿も集め、編集に秀れた手腕があったからと思う。彼は毎月小説や随筆を発表したが、その外に「蜃気楼同人諸価値表」だとか「同人因果帳」だとか彼独特のユーモアに富んだ企画をして同人を笑わせ、彼の編集振りの凡ならざる腕前をみせたものである。これは同人の一人一人を表にして面白く書いたものである。太宰の分だけを抜粋すると、「腕力三〇点 度胸〇点 性欲七五点 スタイル四〇点 人気四五点 財産――十三円の靴 趣味――薬 前身――猫 先祖――トルストイの女中 死後――蒼鬼」となっている。

 

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■「蜃気楼同人諸価値表」

 

 自分で自分の事を書いたのだから謙遜や遠慮は感じられるが、彼は作品には、よく、私は猫背でスタイルは駄目のように書いているが、同人価値表では、スタイルを四〇点にしている。度胸の〇点、腕力の三〇点とあわせて考えればスタイルの四〇点は上位であろう。中学時代の考えはそうであったのだろう。又同人因果帳の「趣味――薬」ということは彼の(からだ)と不可分のものと思われる。太宰の父は、彼が中学校へ入る前年胸部疾患で亡くなり、兄弟達も(からだ)が弱かったので、自分もその血統をついで虚弱なのだという先入観があったようだ。なお当時は一般的に胸部疾患は容易に癒らないものだという考えもあった。太宰の胸はすこし引っ込んでいたが、彼はそれを扁平胸と云っていた。自分の扁平胸も(からだ)が虚弱な一つの要因と考え、長生きは出来ない躯だというように考えていたようである。彼は「命長ければ恥多し」などと兼好法師の事を云ったりして自分の(からだ)の弱さをそんなことで勝とうとした。彼はよく薬を使用した。熱が出ればすぐ薬、腹工合が悪ければすぐ薬、歯が痛めばすぐ薬を飲むといった具合で薬にしたしんだ。我慢するということをあまりしなかった。机のかたわらにいろいろな薬が常に用意されてあった。彼の部屋を訪れる級友達は薬の多いのに驚いたものである。その薬を趣味と茶化しているが、太宰にとっては、(からだ)と共にこだわらざるを得ないものだったらしい。(からだ)は弱かったが、中学時代は、無欠席とまではいかなくとも、ややそれに近い出席率だったと思う。

 

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■「蜃気楼」創刊一周年記念写真。後列右から平山四十三、太宰、中村貞次郎、葛原四津男。前列右から金沢成蔵、工藤亀久造、津島礼治、葛西信造、桜田雅美。

 【了】

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【参考文献】
・山内祥史 編『太宰治に出会った日』(ゆまに書房、1998年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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