11月8日の太宰治。
1926年(大正15年)11月8日。
太宰治 17歳。
十一月八日付で「
『モナコ小景 』
今日は、太宰が青森県立青森中学校時代に発表した習作『モナコ
『モナコ
■『モナコ
『モナコ
小景 』
モナコの海は砂漠の蜃気楼で茶色の影にみちみちていたにちがいない。
マタホオンのとんがりは今にドロドロ崩れてしまうにちがいない。
とにかくモナコの熱い午後である。
――ホイと、そらどうだい――
――チェーッ――
世界的な賭博 である。
賭博開帳中
大きい張札である。
――あらら、おかしいな、どうもいけねえな、オメエ壱年も会わねえで居るうちに、ひでえ腕前を上げたもんじゃねえか…………今日あ、いけねえんだ。やめやめ。
賭博場は大きい。
そして蠅 の糞だらけの天井は低い。
黄色い倚子 は人の尻でジメジメして居る。
鼠色のワニスのテーブルには黒いチウインガムのかす がこびりついて居る。
窓は三つぎりだ。そして重い。
汚い土色の海はこの窓の下である。
浪 のうねりは貧弱だ、白い浪は決してたたぬ。
磯臭い香がこの室の気分である。
――今日あ、むやみに熱いじゃねえか、窓を開けろよ、海の風が入って来らあね。
フリッツは又どなった。
私はわざと、むっとしたように顔をふくらして見せた。
――開けろってことよ。
私はなお、だまりこくってやった。
――開けろったら、開けるんだよ。
……………………
――開けねえな。
……………………
――よおし。
フリッツは猛然と立ち上った。
私は始めてフリッツの顔を見上げた。
そら見ろ、フリッツは決して私には近よれないじゃないか。
彼は猛然と立ち上って…………そして…………猛然と重い窓を開けただけのことである。
フリッツは今実に馬鹿なことをしてるのだ、それはとてもとても恥かしいことなのである。
私はそれを知って居る。
フリッツは私にそれを見つけられたナと、うすうす感づいて居るらしい。
だからフリッツは決して私に手あらなことをしないじゃないか。
フリッツをいじめてやるのは今だ。
ところでフリッツはどんな男かと言いたい。
フリッツは肺結核の初期である。
次に私はどんな男か皆に紹介しなければなるまい。
私は栄養不良である。
フリッツと私とはモナコの青んぼ と言えばすぐわかる。
フリッツの顔もそうだが、実際私自身でさえも鏡をつくづく見てると私の血色の悪いのには、あいそが尽きる。
当然二人の間には、はげしい争闘が無言裡 に開始せねばなるまい。
私はどんなにこの戦争に苦しめられたことであろう。
私にとっては生命 がけの海水浴を始めたのも全くこの競争の為であった。
顔のマッサージをやり出したのもこのセイからであった。
しかし、不幸にもどれもこれも皆失敗だった。
その間私は敵手のフリッツの血色には常に綿密な注意を怠らなかったのである。
恐らくフリッツも同様であったにちがいない。
私は主人の命で約一年伊太利のカララの本店に出張を命ぜられたのだ。
二人は別れた、そしてこの時である――キット又会う日迄と暗に己の勝利を心に期して二人は別れた。
一年間の二人の悪戯は全くいじらしかった、真剣になっての苦闘は却 ってどことなくユーモアに富んで居るものだ。
さあ来い。
二人は勝利の確信を持って、今モナコの賭博場にたしかに血色のよくなかった顔を会したのである。
ほんとだ、自然は大きないたずら坊主だぜ。
この大事な場合にこの暑さは又どうだ。
私は先 ずフリッツの馬鹿なことをしているのを発見した。
あまりの彼の卑怯 さに腹が立って来た程であった。
フリッツはシ ッカリ狼狽 しちまったではないか、チョットでも私の視線からのがれようとしての必死の努力は私にとっては却 っておかしくってたまらないのであった。
汗が出て困るだろう。
窓を開けろと言うだろう。
予想は見ん事的中した。
私はあやうく吹き出しそうになった。
――おおい、皆見ろフリッツの汗は赤いぜ。
私は大きな声で叫んだ。
賭博場の五百人の男が一せいに立ち上がった。
――皆さん、フリッツの顔はいい血色ですネ、何せポタポタ汗と一緒に溶ける血色ですからナ。
――ワ ア ッ――
五百人の男は騒いだ。
フリッツは不思議な男である。
猛然と立ち上って、こんどはホントに私の頬をグワンとやったではないか。
からだが三角形になってスーッと上に泳ぎ上るような気がした。
それぎり分らない。
フト気がついたらフリッツは叫んで居た。
――皆さん、こいつの顔は私に劣らぬいい血色である、どんなに強くぶたれても決して紫色にはならない。
――ワ ア ッ――
五百人の男が騒いだ。
私は静かに起きてズボンのチリを払って、さて悠然とたばこを懐から出した。
マッチをすった。
スパと一口吸って、プフッと煙の輪を吐いた。
私は五百人の男の静まるのを待って、低く言った。
――でもネ、私はこのインキを頬につけて始めて私の顔が出来るんだ。
又プフッと煙の輪を吐いた、こんどの輪は非常に大きい。
――君等がネ、泥が一ぱい顔についた時、君等がその顔を他人からどんなに笑われたって決して腹が立たないだろう。
なぜなら君等はこれア私のホントの顔ではないんです、私のホントの顔はモットモットいいんですと思って居るからだよ、いいかネ、君等はその汚い泥を落すのを恥とするかネ、卑怯とするかネ、あたり前のことじゃないか、泥を落して始めて君等の顔が出来るんだ、インキをつけて始めて私の顔が出来るんだ、インキをつけてない時の顔は私のホントの顔でないんだ、泥を塗った時の顔と同じいんだ、私のは実に堂々たるものさ。
所がここに居るフリッツはやっぱり馬鹿なことをやってることになるネ、こいつは当り前だと思ってつけてないのだ、コッソリやってるんだ。
私はどんなに得意になって居たか。
だが私はここ迄言うと一寸 と言葉を休めなければならなかった。
ドアが開いたからである。
この家の娘のニイが入って来たからである。ニイも私達の競争仲間である。
青黒い皮膚は決して私に劣らぬ青んぼ の気分を有して居た。
私達は無意識と言ってよい程自然に彼女をもいつの頃からか競争仲間として居たのであった。
そのニイが入って来たからである。
ヤア少し見ぬ間に実によい血色になったもんだな。
ホントニよい血色である。
ほんものだ。
ほんものだ。
ニイはニコニコ笑った。
私にはニイの顔はまぶしかった。
フリッツのぼやけた、汗で赤くむらの出来た顔を見た、あまりおかしくもなかった。
ジートそれに眼をつけて居たらフリッツのそれと同じ恰好の男がポッカリ彼のわきにクッツイて現われて来たのである。
二人ならんだ恰好は実に滑稽 である。
又ニイに眼をくばった。
低い天井。
重い窓。
黄色い倚子 。
鼠色のテーブル。
土色の海。
磯臭い香。
私はとうとうメソメソ泣いてしまった。
■「蜃気楼」創刊一周年記念写真。後列右から平山四十三、太宰、中村貞次郎、葛原四津男。前列右から金沢成蔵、工藤亀久造、津島礼治、葛西信造、桜田雅美。
【了】
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【参考文献】
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・太宰治『地図 初期作品集』(新潮文庫、2009年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・日本近代文学館 編『太宰治 創作の舞台裏』(春陽堂書店、2019年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※画像は、上記参考文献より引用しました。
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