11月12日の太宰治。
1936年(昭和11年)11月12日。
太宰治 27歳。
午後一時ニ十分退院した。
太宰、東京武蔵野病院を退院
1936年(昭和11年)11月12日、太宰は、同年10月13日から1ヶ月間、パビナール中毒療養のために入院していた東京武蔵野病院を退院しました。入院中の太宰の様子については、10月19日と11月4日の記事で紹介しています。
今日は、太宰の師匠・井伏鱒二の回想録『太宰 治』に収録の『十年前頃』や、太宰の親友・伊馬春部のエッセイ『桜桃の記』に収録の『御坂峠以前』、太宰の担当医師・
【11月12日】
<井伏『十年前頃』>
朝、初代さん来て、拙宅家内とアパートをさがす。太宰の住居を見つけるためである。
十一時半、初代さんと共に太宰を病院に訪ねる。津島文治氏も来着。太宰夫妻は自動車にて荻窪拙宅に来る。小生、文治氏と共に電車にて荻窪に帰り、照山荘アパートに荷物を運ぶ。四時ごろ、荻窪駅を発つ文治氏を一同にて見送る。本日、上野駅発にて津軽に帰るとのこと。太宰夫妻はアパートに行く。
太宰は、朝食後に2時間院外を散歩。そのほか、廊下徘徊などをして落ち着かない様子でした。
この日の朝、太宰の妻・小山初代は、井伏宅を訪れ、井伏夫人・井伏節代と退院後に居住するアパート捜しに出かけています。
11時30分、井伏と初代が東京武蔵野病院を訪れ、昼食をとった後、太宰の長兄・津島文治も病院に到着し、13時20分に退院しました。
退院の際、太宰は即興の句などを書いて、自身の処女短篇集『晩年』の初版本を、担当医師・中野嘉一 に贈っています。
中野に贈られた『晩年』の扉には、
「君は私の直視の下では、いつも、おどおどして居られた。私をあざむいた故に非ずして、この人をあざむいているのではないかしら、という君自身の意識過乗 の弱さの故であろうか。。私たち、もっと、きっぱりした権威の表現に努めようね。」
「ひとりいて/ほたるこいこい/すなっぱら」
という献辞が書かれていました。
中野によれば、退院時の太宰は「中毒はすっかり治って退院したが、肺の方がまだ酷かった」といい、「病床日誌」(カルテ)に「全治退院 Psychopath」という診断名を記しています。「Psychopath」は、<精神病質者>という意味。中野は「パビナール中毒、モルヒネ中毒などの土台としての性格として」、この診断名をつけたといいます。
東京武蔵野病院を後にした太宰は、秋晴れの中を、初代と共に車で荻窪の井伏宅に向かい、杉並区天沼の白山神社裏手、光明院裏の照山荘アパートに荷物を運びました。
16時頃、太宰は、荻窪駅を発つ長兄・文治を見送ったあと、初代と一緒に照山荘アパートに帰ります。同日、井伏と共に、親友・伊馬鵜平(のちの伊馬春部)を訪れるも、不在。夕刻、井伏家に居ると、伊馬が訪ねて来ました。
<伊馬『御坂峠以前』>
「文芸」来たる。『駅長おどろく勿論れ』と『赤猿』(緑川貢)と。夕刻帰宅するに、津島君(註――太宰のことをなぜか改まってこう記している)、退院せしとて、井伏さんと二人して来たりと。即ち井伏家に伺いしに元気なる姿あり。病勢その後いかがなりたるや否やはっきりとは聞かざりしかど、やや未だ不安なり。
■太宰と小山初代
【11月13日】
<井伏『十年前頃』>
太宰、初代さんといっしょに来る。
太宰はアパートが気に入らないそうである。故に初代さん、拙宅家内といっしょに貸間さがしに行く。小生、太宰と将棋をさす。
【11月14日】
<井伏『十年前頃』>
天沼に八畳の貸間を見つける。
(追記――天沼の栄寿司と衛生病院の中間にある大工さんの家の二階であった。この家の棟梁夫妻は太宰の面倒をよく見てくれた。建前のお祝などのときには、太宰夫妻を上座に据えて大々的にもてなした。太宰は頻りに書を揮毫 した。これは初代さんの語ったことである。)
【11月15日】
<井伏『十年前頃』>
平野屋の厚意にて、照山荘アパートより太宰夫妻の荷物を貸間に運ぶ。太宰は平野屋に一任して自分の荷物を顧みない故、平野屋ひとりにて、あくせく荷物を二階に運ぶ。
夜、太宰と初代さんが来て、部屋が殺風景だから何か飾るものを貸してくれと云う。末広鉄腸の半折と、伊部の花瓶を床飾り用として貸す。太宰と将棋する。小生一勝。
(追記――末広鉄腸の軸は、私が田中貢太郎氏から戴いたもので、後に田中さんが亡くなられたので、遺品の転移で私から太宰への生き形見ということになってしまった。伊部焼の花壺は模造品ではなかったが、大したものではない。)
照山荘アパートが気に入らなかった太宰は、荷物を杉並区天沼一丁目238番地の碧雲荘 に運んで引越しました。碧雲荘 は、天沼衛生病院裏手の大工の棟梁が経営していた物件で、太宰が引越したのは、二階でした。
同夜、太宰は初代と井伏宅を訪れ、井伏と将棋を一番指して帰宅しました。
■碧雲荘 現在は杉並区天沼から大分県由布市湯布院町に移築、泊れるブックカフェ「ゆふいん文学の森」として営業中。2015年6月、著者撮影。
【11月22日】
11月22日付で、太宰のお目付け役・北芳四郎 が中畑慶吉 に宛てて書いた手紙には、本屋、酒屋、電気、仕立屋、薬屋、家主等への支払い敷金差引「三百円也」とあり、初代が「病院へ入院の事をヒドク悪く思て居られる様」と書かれています。
■北芳四郎 と中畑慶吉 写真左、北の手前に映っているのは井伏鱒二。
【11月24日】
11月15日からの10日間、太宰は「一面の焼野原」に彷徨 う思いで、『HUMAN LOST』を執筆し、「新潮」の1937年(昭和12年)新年号に発表の予定で、「新潮」編集部・楢崎勤宛で送付しました。
東京武蔵野病院の主治医・中野は、「太宰は、ただものではなかった。」「いま考えてみると、さめた目で入院生活を観察し、のちに「HUMAN LOST」に詳細に書いている。」と話しています。
【11月25日】
熱海温泉に赴き、馬場下の八百松に滞在し、「文藝春秋」に持ち込んであった『二十世紀旗手』の改稿に着手。
【11月29日】
「改造」に発表の『二十世紀旗手』39枚を脱稿、改造社に送付。
同日、太宰は義弟・小舘善四郎に宛てて、『HUMAN LOST』の一節を引用した次のようなハガキを認め、俳号・朱麟堂 の署名で投函しました。
静岡県熱海温泉馬場下
八百松より
青森県浅虫温泉 小舘別荘
小舘善四郎宛
寝間の窓から、羅馬 の燃上を凝視して、ネロは、黙した。一切の表情の放棄である。美妓の巧笑に接して、だまっていた。緑酒を捧持されて、ぼんやりしていた。かのアルプス山頂、旗焼くけむりの陰なる大敗将の沈黙の胸を思うよ。
一噛の歯には、一噛の歯を。一杯のミルクには、一杯のミルク。(誰のせいでもない。)
「傷心。」
川沿いの路をのぼれば
赤き橋、また ゆきゆけば
人の家かな
■太宰と小舘善四郎
太宰から、このハガキを受け取った小舘は、初代が「2人だけの秘密にしておこう」と約束したことを漏らしてしまったと錯覚し、「秘め事にしてほしいと哀願した初代の事が無性に腹立たしく思われ」たそうです。
【了】
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【参考文献】
・中野嘉一『太宰治ー主治医の記録』(宝文館叢書、1980年)
・伊馬春部『桜桃の記』(中公文庫、1981年)
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・井伏鱒二『太宰 治』(中公文庫、2018年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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