2月1日の太宰治。
1935年(昭和10年)2月1日。
太宰治 25歳。
二月一日付発行の「文藝」二月号に、「逆行」の
太宰の文壇デビュー
新宿ムーラン・ルージュ創立期の座付き作者を経て、NHKの連続ラジオドラマ「向う三軒両隣」では連続放送劇のパイオニアとなります。多彩な才能によって数々の芸術賞を受賞しました。
伊馬は、「畜犬談」や「十二月八日」などに実名で登場します。
太宰が「太宰治」のペンネームを用いる前から井伏を介して知り合い、太宰を「津島君」(太宰の本名は「
そんな伊馬は、それまで同人誌に作品を発表していた太宰が商業誌に作品を発表し、文壇デビューするきっかけを作った人物でした。太宰についての数々の想い出を綴った著書『桜桃の記』の中でも、「私のひそかな誇り」として、当時のエピソードを紹介しています。
そのころの私に、今でもひそかに自慢に思う一つのことがある。故
田中英光 編むところの太宰治年譜(「自叙伝全集」)によれば、昭和九年(二十六歳)の項に、
ーー改造社の「文芸」から原稿の依頼を受け(『逆行』)、文壇の新人として漸 く注目され始めたーー
とあって、これが営業雑誌に於ける処女発表であり、且つ第一回芥川賞の候補作品に推されたことは周知の事実であるが、実はこのきっかけを作ったのは、私であるからである。当時「文芸」の編輯者 に酒匂さんという九州出身の酒豪がいて、私の"ムウラン・ルウジュ"の作品を見てもらったあとは必ず「樽平」(註 ー今の二幸裏のそれではなく、戦前は末広亭の通りにあったもの)において談論風発するのが常であった。私にも戯曲を同誌に発表させようと慫慂 しきりなるものがあったが、そしてそれは後にやっと実現もしたが、それよりも私はまず酒匂さんに、『魚服記』『思ひ出』(共に「海豹)『ロマネスク』(「青い花」)の作者を友人に持つことの誇りをいつの時にも口を極めて多弁したことを、忘れることができないのだ。
もちろん、私のようなものがしゃしゃり出なくても当然、光栄ある舞台を提供される太宰ではあったのだが、その処女舞台が「文芸」であったことは、すくなくとも右のような事情が介在することも一因であることを、本誌がその「文芸」の後身誌であるだけに、書きつけておきたい気がしたのである。「文芸」にも、もちろん他からの口ぞえもあったにちがいないが、私は私なりに、私のひそかな誇りとして蔵 っておきたい気がするのである。
【了】
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【参考文献】
・伊馬春部『桜桃の記』(中公文庫、1981年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・公益財団法人三鷹市スポーツと文化財団 編集・発行『平成三十年度特別展 太宰治 三鷹とともに ー太宰治没後七十年ー』(2018年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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