記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】11月19日

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11月19日の太宰治

  1947年(昭和22年)11月19日。
 太宰治 38歳。

 十一月に書かれた、山崎富栄の日記。

富栄「こうした私の心の飛躍」

 今日は、太宰の愛人・山崎富栄が、1947年(昭和22年)11月17日から11月23日までに書いた日記を紹介します。
 今日紹介する日記の直前、11月16日付の日記は、11月15日の記事で紹介しましたが、太田静子が長女を出産し、太宰が太田治子命名した時の様子について触れられていました。

十一月十七日

 私の大好きな、
 よわい、やさしい、さびしい神様。
 世の中にある生命を、わたしに教えて下さったのは、あなたです。
 今度もわたしに教えて下さい。
 あなたのように名前が出なくてもいいのです。
 あなたのみこころのような、何か美しいものを、み姿のかげに残しておくことができれば……。

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■山崎富栄

十一月十八日

 ひる。
”――サッちゃん、”レベッカ”は苦しいでしょう?”
”サッちゃん、あの子が太宰さんの子なんですよ!”
”――いいえ、あの子は斜陽の子です”
”私は奥様と同じように、あなたが斜陽の人に逢うことはいやです。もし逢ったら、私死にます”
”逢わない、誓う、ゲンマン
 一生、逢わない”
 十八日、よる。
 修治さんに、書いたものをおみせする。
 勝つよ。僕達は勝つよ、と仰言って下さる。
”愛の問題だよ、これぽっちも(と、小指の先を示して)愛情がないんだよ”

  次の11月20日付の日記は、富栄が父親と母親に宛てた手紙になっています。

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■富栄と父・山崎晴弘 晴弘は、日本最初の美容学校である、お茶の水「東京婦人美髪美容学校」(お茶の水美容学校)の設立者。富栄は次女。

十一月二十日

 お父さま、お母さま、御元気でいらっしゃいますか、もう御病気も快くなられたことと存じて御便りいたします。
 暖かいうちに、一度近江にいきたいと思いながら、その日に追われて御無沙汰いたしておりました。奥名の籍ももとに戻って、いま、手続きをいたしております。抄本が一緒に入っていなかったので遅れていたのです。昔の話になりますけど、十二月九日にお式をあげて二十一日までの奥名富栄さん、それから今日までの四年の間に、本郷での罹災――田舎落ち――鎌倉――三鷹町――と随分わたしも転々といたしました。それでも、奥名家山崎家へも、ことの外のご迷惑もかけないで、どうやら生きてまいりました。

 葬儀もすっかり終え、お部屋に落ちついて昔をふりかえってみますと、感慨深いものがございます。
 この間、武田様、飯田様が御一緒におみえになりました。おくやみと、わたしの再婚のこと(別に具体的なことではなく)を御心配下さるお話しでした。それにつきまして、わたしも近いうちに御訪ねして、今日このお便りのうちに書きますような、私の決心を御話し申し上げる気持ちでおりますので、その前にお父さま、お母さまに御相談――というよりもわたしのこのお願いをどうしても受け入れていただきたくて、お便りいたします。
 少し長くなりますけど、どうか終わりまで判読下さいますよう、お願いいたします。
 成人した娘の真剣な願いごとを受けていただきたいのです。冷静に書いて、理解していただきたいと(ねが)っております。
 そう――お父さまが御上京のときには、いつも笑いながらお話ししましたでしょう。おつきあいいただいている先生のこと。わたし、そのお方を敬愛しておりました。
 大変御苦労なさって、生きていらしたお方なので、人の苦しみや、悲しみや、また、よろこびなどにも、悲しみ深いおこころをお持ちになってあらゆる周囲の方々から敬愛されていられるのです。
 たびたびお遊びにみえましても、お話の落ちが女になるというようなことは一度も仰言ったこともなく、わたしも相変わらずの、やんちゃ娘で、おつきあい願っておりました。
 淡々としたおつき合いで、どういうお家柄のお方とも、どういう御家庭をお持ちのお方とも存じておりませんでした。また知ろうとも思いませんでした。
 お友達とお話していらっしゃるいろいろの事柄を、おそばで伺っておりますうちに、世の中にこんな美しいお心のお方が生きていらっしゃったことがうれしく、御一緒になれないお方でもいい、せめて、こうして時折のお招きに、おそばに坐って、可愛がっていただければと、わたしは思うようになりました。そうしておりましても、わたしの仕事を休んだことはございませんし、先生も、御自分のお仕事を愛していらっしゃいますから、いつでもちゃんと、お仕事をなさってから、文学のことや思想のこと、ときには政治の御批評を伺いにいらっしゃるお友達と御一緒に、わたしとも遊んで下さいました。
 わたしの貧しい知識を補うためにも、お誘いをうれしく思っておりました。先生のお名前は、津島修治様と仰言って、ペンネームを太宰治様と仰言います。
 津島様のお父様は御他界遊ばされていられますが、御名前を源右衛門様といわれ、貴族議員をなさっていられました。お兄様は、現在青森県知事をなさっていらっしゃいます。
 津島様は弘高から東大仏文科を卒えて、たしか亡くなった(とし)ちゃんとは御同年のお方でいらっしゃいます。
 いつか病院で、(てる)ちゃんが、
「僕も入院生活でお前のそばについていてあげられないし、苦しいことがあったら話しに来いよ」といって下さったことがありますが、いまさらのように思い出されます。
 輝ちゃんがいて下さったら、お父さまへのお願いごとも、きっとすらすら運んで下さったのではないかしらと、そんな気持ちもいたします。だって、お父さまも、お母さまも、輝ちゃんが大好きだったのでしょう。そして輝ちゃんは、わたしをとても可愛がって下さったし、わたしにとって輝ちゃんは、両親のように思われるときもあれば、また姉のようにも懐かしく思われて慕っておりましたから。

 

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■山崎輝三男告別式(前列右端が富栄) 三兄・輝三男は応召して満州に出征。戦地で病を得て内地送還となり、1942年(昭和17年)4月10日に戦病死した。次兄・年一(としかず)と同じ命日にあたる。

 

 お父さま、なぜ富栄は輝ちゃんのことを書いたりして本当のことを避けているのでしょう。お父さま、お母さまのお怒りが怖いからでしょうか。いいえ、ただひとこと「ごめんなさい」と申し上げたかったのです。そしてわたしの願いごとを、ありのままに書いて、わたしたちの心の中に隠されている宝を理解していただきたかったのです。
 どうぞ、わたしからこの宝をとってしまおうとなさらないで下さいませ。津島様は明晰な頭脳と、豊かな御人格で、日本作家陣の最高の地位を保っておられ、文壇をリードされていらっしゃる御立派なお方で、御性格からは、侘びしさと、優しさの印象がわたしには強く感じられるのですけれど、お友達の言葉を借りますと、
「とても貴族的で、明朗で、天才的なお方」なのです。
 津島様はわたしとは十も年がお違いになっていらっしゃいますが、何となく血のつながりの濃いものが感じられ、お父さま、お母さまの御心配なさるようなお方ではございません。
 わたしも年が明ければ三十ですし、罹災して、あちこち世の中の苦労も身につけ、もう一通りの女の眼や、成人生活も持ったつもりでおりますし、そうしたものを通して、御つきあいいただいているつもりでございます。
 わたしは女史といわれるお方のように、世の中に名前が出なくてもいいのです。
 芸術の生命をわたしに教えて下さったお方に愛されて、そのお方の持っている美しいもののような何かを残して死にたいのです。
 お父様も、現在の打算を抜いてお考え下されば、きっとわたしのようにお思い下さるのではありませんかしら。
 一時的な関係から起こってくる放埓(ほうらつ)な生活――というようなことにはおちいりません。
 私達はいつの頃からというようなことはなく、なにか、こうなることが自然に与えられた宿命のように、お互いに愛しあうようになりました。
 津島様はわたしを信じて下さって(、、、、、、、)作品以外の重要な事柄をもお話し下さいますし(、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、)、いろいろの御相談をもなさって下さいます。
 信じ合うということは貴いことの一つではございませんかしら。
 わたし達は、お互いの家庭に傷をつけないように、責任のある態度で生活していきたいと心懸けております。
 わたしたちがこうなったことは、津島様が悪い男の方でも、また、わたしが悪い女のひとになったからでもありません。 
 同じ夢を抱いて歩んでいた二人のひとが、一つの道でやっとめぐり逢ったということが世の中にはあることなのではありませんかしら。そして、それが社会には全面的にうけ入れられないものであっても。
 わたしのお店の方のことも、こうしたわたしの個人的な問題と、電気についていろいろな問題からお断りいたしました。
 津島様は、わたしの仕事のことは自由にしてもいいからと仰言って下さるのですけど、津島様のお仕事のお手伝いと、御来客の御接待に、毎日忙しく日を送っておりますので、十一月からずーっと家に落ち着くことにいたしましたが、わたしの生活のことにつきましては、そのお仕事のことで十分足りておりますから御心配はいりません。

 こういうお便りを差し上げたからと言って、わたしのお父さまを慕う心も、お母さまを思う心にも、少しの変化もございません。
 わたしが悪い女のひとになったのなら、こうした苦しい手紙を書かないで、さっさと歩いて行ったことでしょう。
 わたしは人の温かいこころにふれていとうございます。
 なんでもなく、こうしたことの、(ゆる)された時代に生きていた昔の人達を、羨ましいと思います。
 富栄のこうした願いごとをお読みになることは、お父さま、お母さまにとって、とてもお辛いこととよく承知いたしております。
 こうした私の心の飛躍は、あまり突飛すぎて、受け入れてはいただけないのでございましょうか。若しお許しいただければ、ほんとうにわたしは幸せなのです。
 わたしは津島家の愛人として慎み深く立派に成長していきとうございます。
 お父さまの御返事が、わたしを惨めにさせないようにと祈っております。
  十一月二十日
          富栄拝
 お父さま
 お母さま
 追伸
 師走の風がついすぐそこまで吹いてまいりました。お体くれぐれも御大切になさって下さいませ。わたしはこれをお読みになる御両親の御姿を思い浮かべながら、毎日御返事を待っております。このことは、わたしにまかせて下さいませ。

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■山崎富栄

十一月二十一日

 いつものように御仕事におみえになる。
 ここ四、五日前から御洋服。「デブちゃんなんだよお!」とおうわさになっていた小説新潮の女のかたもおみえになる。
 井伏先生と、御一緒に写されてある御写真を拝見する。私も欲しいわ。

 

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■太宰と師匠・井伏鱒二

 

 三時近くになると、お体の調子も、御疲れになられるせいか「まだ三時か――」などと仰言って、お仕事なさっていられる。
 御酒がお飲みになりたい?
 この間は喀血なさったし、あまりかんばしいお体ではないんだけど。アダリンと膏薬を買ってくる。
「昨日の朝ね、胸を開いて寝てたんだ。そしたら、里子ちゃんは幸せね、羽左衛門と一緒に寝られて――って女房が来ていうんだ」
 妙布の貼り工合が変わっていたかしら。
 お仕事の方は、私には分からないので、毎日心配しながら、おそばで用事をしているのだけれど、「とてもよく書けるんだよ」と仰言って、書きかけのを「読んでごらん」とみせて下さる。
 いつものように夕方土手べりを歩いてお送りする。お月様が明るくて、霧のようなものがおりていて、ボーッとした、美しい眺め。
 二人で終戦後のものでは好きな歌だと仰言る「あなたと二人で来た丘は……」というのをハミングする。
 三鷹病院の横を通る。
「入院するようになったら来てね」
「こちらからお願いします」
「頼みますよ。そして、二人でベッドの上で死のう」
 いつものようにお近くの横丁でベーゼ。おやすみなさい。

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太宰治 撮影:田村茂。

十一月二十二日

 野平さんと御一緒に七時頃、再びおみえになる。
 毎日の停電でお気の毒。お泊りになる。

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三鷹の若松屋 左から太宰、女将、新潮社の担当編集者、野原一夫と野平健一。撮影:伊馬春部 

十一月二十三日

 あさ、お見送りしてから東京へ出る。
 吉川さんと、久我さん宅へおよりする。
 下着を、もう一枚着たせいか温かい。
 亀島様から、御本のプレゼント、お心づかいを感謝。
 八時頃かえってきてから、「斜陽」と「晩年」の印を押す。(二万)。四時間かかって出来上がる。二十五日に御持参なさる由なので、是非とも今日中にはと思って。それと、わたしも自分の体をこわしたかったので。
 修治さんばかり病状が悪化するのでは、いや。

  「『斜陽』と『晩年』の印を押す。」とあるのは、検印のこと。

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■検印 現在出版されている本には無いが、ISBNやバーコードが無かった時代に、出版社が著者との取り決めで、著者が出来上がった著書の総製作部数を確認するために、検印用紙に印を押し、印を押した検印用紙を著書の奥付に貼りつけた。写真は、太宰の処女短篇集晩年のもの。2019年、著者撮影。

 翌12月10日付で、「新潮文庫」の1冊として新潮社から晩年が、5日後の12月15日付で、斜陽が新潮社から刊行されました。斜陽は、たちまちベストセラーになり、初版10,000部、再版5,000部、三版5,000部、四版10,000部と版を重ね、翌年7月に刊行された新版と併せて、1949年(昭和23年)3月までに120,000部を越したそうです。

十一月二十三日

 斜陽のひとのお手紙に Nо(ナンバー) をつける。信じて私に持たせておいて下さる心はうれしい。
「さっちゃんの角が出るよ」と御冗談。
「五、六本生やそうかな」と読み出す。
「別に角も出ませんわ」
「カッコの中読んだ?」
「私生児とその母……こういうことは、今の女のひとには随分多い考え方だと思うわ。わたしだってそう思っているし、この斜陽が結局そういう人達の代弁になっているんじゃあない」
 斜陽を御執筆のころ、わたしに良く似た考えのひともあるものだと思っていた。――よなかの二時。
”美しいもの”
 吉田さんが、何日(いつ)か、 酔い寝しながら、ブツブツと、
 「僕がこんなに太宰のことを思っているのに、太宰は僕のことを思ってくれない」と。
 修ちゃんと、伊馬さんと、お二人の会話。
 いいお友達ね、羨やましかった。――太陽の如くいけ――って。
 ひとに知られずに描いた一つの種の成長を眺めることの美しさ。

  斜陽のひと」とは、長女・太田治子を出産したばかりの太田静子のこと。「お手紙に Nо(ナンバー) をつける」とありますが、太宰は、養育費として毎月10,000円(現在の貨幣価値に換算すると、約18万~36万円)送金することを約束していましたが、実際に送金の手続きを行っていたのは、富栄でした。

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■太田静子と治子 1948年(昭和23年)春に撮影。

 【了】 

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【参考文献】
・山崎富栄 著・長篠康一郎 編纂『愛は死と共に 太宰治との愛の遺稿集』(虎見書房、1968年)
・長篠康一郎『太宰治文学アルバム ー女性篇ー』(広論社、1982年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「日本円貨幣価値計算機
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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