記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】11月21日

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11月21日の太宰治

  1945年(昭和20年)11月21日。
 太宰治 36歳。

 青森市で四姉きやうの葬儀が行われ参列。焼香の時に「耐えきれず泣いてしまった」という。

太宰の四姉・小舘きやうの死

 1945年(昭和20年)11月14日、小舘家の長兄・小舘貞一に嫁いでいた太宰の四姉・小舘きやうが、青森市郊外の浅虫にある小舘別荘で、小学5年生の一人娘・小舘俱子を残して、午前9時20分に逝去しました。享年40歳でした。
 1週間後の11月21日、青森市できやうの葬儀が行われ、太宰はその葬儀に参列しました。

 今回は、太宰治研究 4に収録されている太宰の妻・津島美知子の回想『回想記 ー姉たちとその周辺の人々の思い出ー』から引用しながら、太宰と姉・きやうについて紹介します。

 昭和一四年一月、甲府の御崎町に所帯を持って暫く経ったころ、青森から木箱入りのリンゴが届いた。荷札には「小舘せい」と書かれていた。
 このとき初めて太宰から、すぐ上の姉が、材木商の小舘家に嫁いでいること、「せい」さんは、(しゅうとめ)に当たる方だということなどを聞いた。
 春になって蟹田の中村貞次郎さんが、手籠いっぱいの毛ガニを送ってくださった。
 せいさんからのリンゴも、旧友中村さんからのカニも、太宰の再出発を祝っての贈りものだったのだろう。
 京姉に会ったのは、それから約四年後であるが、それ以前にも文通や贈答はしていて、姉のいいつけで、母の病に効くという「万惣の西瓜糖」を金木に送ったこともあり、一六年に長女が生まれてからは、姉がその娘の着古しを次々、送ってくれて衣料品欠乏の折から助かっていた。(一八年夏、園子がお下がりの一つ、チェックの吊りスカートをはいて、父と三鷹の家の出窓に並んで写っている写真が「文学アルバム」に収められている。)

 

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三鷹下連雀の自宅出窓で、チェックの吊りスカートを穿いた長女園子太宰治 1943年(昭和18年)夏、撮影。

 

 金木に行った帰りに、姉の入院先の阿部病院に見舞い、私は初めて京姉に会った。
 小舘家からの中年の女中がつき添っていた。
 姉は、黒髪豊かな美しい人だった。寝たきりの重態というほどでもないらしく、姉は太宰と、時には私をも交えて快活に語り合い、見舞いをよろこんでいるように見えた。
 太宰は前夜、泊った寺町の豊田家から、電話をかけるか、使いを出すかして、私どもの見舞いを姉に前以って連絡し、姉も同様に小舘家に知らせておいたらしい。姉は園子にと、お古の赤い小さなケープを用意してくれていた。
 そのケープを着せてみせているとき、小舘母堂せいさんが、姉の娘、俱子を伴ってきた。
 私はあわてゝ、ケープを脱がせ、母堂に挨拶した。
 この昭和一七年一一月初旬の午後が、京姉と私との、たゞ一度の対面のときである。

 わずかの年月の交流、一度会っただけの印象であるが、姉は周囲に細かい気配りを欠かさぬ人柄で、太宰が自分のことを「母親ゆずりの苦労性――」と書いているが、この姉も太宰と同じ体質と、性格の一面とを持っているように感じた。
 かつて度々、婚家に在って、この弟の起こした事件で、手ひどい打撃を受けた姉であるが、昭和一七年は太宰が新しい出発をして安定していた時期で、初対面の妻子を連れて、郷里の母を見舞った帰りではあり、姉弟、明るく談笑したのだろう。私は、このひとときを持つことができて、ほんとによかったと思う。
 昭和一九年「津軽」取材の旅に出た太宰は、帰京する前、青森市の自宅で療養中の姉を見舞い、これが姉と太宰との最後の対面となった。
 戦局が険しくなって、私ども一家が、甲府三鷹で爆撃にあい、逃げまわった末、二〇年夏、金木に辿り着いた。その間、姉は一時、小康を得たこともあったが、本復できず、敗戦後の秋は重態となり、昭和二〇年一一月一四日、浅虫の小舘別荘で他界した。享年四〇年。一粒種の俱子は一一歳で、母を(うしな)った。
姉の告別式には、金木から長兄と、病気入院中の次兄の代理の(あによめ)とともに太宰も参列した。
 姉の死に直面して、度を失っていたのだろう。帰宅した太宰は「がまんしていたが、耐えきれず声に出して泣いてしまった。そのうえ、焼香のとき長兄の次は自分と思い、代理の(あによめ)がいるのに、うかうか起ち上がって焼香しようとして恥ずかしかった――」と、小康順というものは、なおざりにしてはならないことなのに、満座の人々の眼前で失態を演じたことを悔やんで、私に訴えた。

 

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■太宰の中学時代 左から、テイ(叔母・キヱの次女)、太宰、母・夕子(たね)、四姉・きやう、弟・礼治、三兄・圭治

 太宰が成人後、自身の著書を贈り、私信を交わしたのは、肉親の中で四姉・きやう1人でした。きやうは、太宰にさんざん心配させられながら、この弟に何か期待するものがあったのか、終始見捨てず、陰ながら支え続けていました。
 姉の死により太宰は、かけがえのない自身の支持者を1人、失うことになりました。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治研究 4』(和泉書院、1997年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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