記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】2月2日

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2月2日の太宰治

  1920年(大正9年)2月2日。
 太宰治 10歳。

 タケの婚姻届けが小泊村に提出された。

太宰と越野タケ

 越野(こしの)タケ(1898~1983、旧姓・近村)は、金木村大字金木字朝日山三百七十六番地の津島家の小作人、近村永太郎・トヨの四女として生まれました。
 太宰が3歳の1912年(明治15年)、13歳だったタケは小作米納付の代償に、女中として年季奉公に入り、津島家六男の津島修治(太宰の本名)を6年間子守しました。『津軽』クライマックスの再会シーンも有名です。

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 父の源右衛門は政治家、母の夕子(たね)は病弱だったため、太宰は乳母、叔母、あだこ(津軽弁で、子守の意)に育てられ、両親に「うずげる」(津軽弁で、あまえるの意)ことができずに育ちました。
 そんな太宰にタケは、2人で野原を走り回ったり、昔話を語り、本を読み聞かせたりしました。
 また、雲祥寺(太宰の生家・斜陽館の近くにある寺)で「地獄の掛図」を見せて善悪を教えるなど、読書や道徳の養育にあたりました。この時の影響は、確実に太宰の文学観に影響を与えています。
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■「地獄の掛図」(2018年5月5日、雲祥寺で撮影)

 タケは、1917年(大正6年)2月頃、太宰の叔母・キヱの家の女中となって、金木を去ります。そして、翌1918年(大正7年)春頃には、タケは叔母・キヱの家の女中も辞し、実家に帰りました。女中を辞したあとも、タケはたびたび津島家に遊びに行きましたが、太宰はタケが来ているのを知っても、何だかきまり悪そうな素振りをして、会おうとはしなかったそうです。

 同年7月、タケは北津軽郡最北端の村落である小泊村18番戸の雑貨商「三富(さんとみ)商店」を営む越野家に後妻として嫁ぎます。夫の越野正代(こしのまさしろ)は、船大工。小泊村に婚姻届を提出したのは、翌年1929年(大正9年)の今日でした。

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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