記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】11月27日

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11月27日の太宰治

  1935年(昭和10年)11月27日。
 太宰治 26歳。

 随想「人物に就いて」で言及される、小舘保治郎没。

『人物に就いて』

 1935年(昭和10年)11月27日、太宰のエッセイ『人物に就いて』の中に登場する小舘保治郎が亡くなりました。保治郎は、太宰の義弟・小舘善四郎の父。善四郎は、保治郎の三男です。
 太宰と善四郎は、太宰の四姉・きやうが保治郎の長兄・小舘貞一に嫁いだことがきっかけで、次兄・小舘保とともに親交を深めました。太宰は、善四郎のことを、弟のように可愛がったそうです。

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■太宰と小舘善四郎

 太宰のエッセイ『人物に就いて』は、1935年(昭和10年)11月23日に脱稿され、翌1936(昭和11年)1月1日発行の「東奥日報」第一五五八七号の第二十二面に発表されました。
 初出の際、文末尾に「(十一月二十三日しるす)」とあり、さらに「附言」として、「十一月二十五日小舘保治郎氏の訃報あり、この欄はその前にしるされたものである(編集者)」と記されています。

『人物に就いて』

 ちかごろ、歴史的人物で興ふかきは、やはり、乃木大将である。私、さきごろまでは、大塩平八郎を読んでいた。かれが、ひとりの門弟と論争して、お膳のかながしらの頭をがりがり噛んで食べた、ことなど、かれの人となりを知るに最もよきエピソオドであろう。けれども、いままた、乃木将軍が、よみがえって来て居る。一望千里の満州の赤土の原、あかあかと夕焼にてらされ、ひとり馬で歩いて居る猫背の乃木将軍のすがたが、この眼に見えるのだ。がいせんの折、陛下の御前に立ち、「なんの! これが、がいせんでございましょうや。私は、万人の部下を殺した男でございます。御処刑をこそ、おねがい申します」と言い、男泣きに泣いた。泣いた片眼は義眼であった。かれは、それを、ひたかくしにかくしていた。つい、先日、それが、はじめて、新聞に出て、世人を一驚させたことである。かれの生前、二三の人が、それを知って居るのみであった。かれ、常日ごろ、わが家に禁断の一部屋を設け、そこには誰も、いれなかった。かれは、しばしばそこに閉じこもるのである。家人、さだめし、御勉強のことであろうと緊張した。いずくんぞ知らん。その部屋は、かれの昼寝の部屋であった。またいう、東郷大将とふたり外遊の折、乃木、かならずその国一のホテルに宿り、手袋、煙草、すべて一流のもののみを用いた。あれほどの倹約家がと部下ひとしく眼を見はったが、かれ、思えらく、おれは日本を代表する将軍である。おれの一挙手一投足に依り、外国人、かならず、日本の評価をこそするにちがいない、と。(その余は、他日また)

 

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乃木希典(左)と東郷平八郎(右)



 私の兄はこの県で県会議員をして居る。太宰という県会議員はない、と頬ふくらますひともあろうが、私は、いつわりを言わぬ。毎朝いただいて居る東奥日報に拠れば、私の兄は、いま県会に於いてたいへん割のわるい役をして居るようである、私、いま、兄上に叱咤されるのを覚悟のうえで申しているのであるが、勘平役者が黒衣にまわったようで気持がよくない。けれども、また、葉落ちる秋あれば花咲く春あり。菅公のむかしからきまって居る。話は飛ぶが私の兄は、この地方に於いて最も注目されてよい人物の一人かもしれぬ。ソロモン王の底知れぬ憂愁をうかがい知り得る唯ひとりの人である。百万円きずきあげるよりも、百万円守るのが、むずかしいのだ。守るちからは、はたからは、絶対に見えぬ。やくざな私を、無言のうちに叩きあげて下さるのも、すべて兄上のちからである。兄上の峻厳と竹内俊吉氏のなごやかさは、県会に於いて、よいコントラストをなしたであろうに。惜しいことをした。

 

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■「私の兄」津島文治



 青森三通。ひとりは小舘保治郎氏であり、ひとりは、寺町の豊田太左衛門氏であり、いまひとりは、書のたくみな齋藤常次郎氏であろう。
 小舘氏は、孤芳と号し、俳句をつくられる。七八年前、相州鎌倉の御別宅にて、「正月や酒の肴もくにのもの」の一句を私に示された。まことに長者らしき、なごやかな、人柄そのままの自然の風ありて、われらの及ぶところでないと思った。
 豊田太左衛門氏は、ゆいしょある老舗の主人にして、これまた、長者のふうあり、もののわかりのよきこと無類、三四年前、私と一緒に銀座うらを漫歩せしことありしが、私をしてまるで、鏡花、荷風などの老文士とともに在るが如き思いを懐かしめた。

 

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■青森中学時代の太宰 前列左端が豊田太左衛門、右端が太宰、後列左が太宰の弟・津島礼治。太宰は青森中学時代、津島家の縁戚だった豊田家に下宿していた。

 

 齋藤常次郎氏は、いま、たわむれに書画骨董をあきなって居られる由であるが、そのひとがら、その前半生、明治初年に没したる大通中の大通細木香以(ほそきこうい)を思わせる態の洒脱(しゃだつ)の趣があるのである。細木香以に就いては、森鷗外くわしくこれを述べて居る故、われら小倉袴のぶんを以てかれこれ言うべきではないが、通人とは、世人が考えて居られる如き、芸者末社をひきつれ、自らを何のや主人と称して長唄の稽古にいそしみ、その巷に於いて兄さん兄さんと呼ばれて居る様の、そんなふざけたものではないようである。そこに人間の本然のすがたを見せ、はたまた厳酷なるダンディズムを感じさせるものをのみ指して言うのであろう。その点では、天下の大野暮乃木将軍も亦、ものの見事に通人の資格あらん乎。さもあればあれ、御三人、ちかごろの寒さにつけても、おからだお大切のこと、第一におねがいいたします。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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