11月30日の太宰治。
1947年(昭和22年)11月30日。
太宰治 38歳。
十一月に書かれた、山崎富栄の日記。
太宰に付き添う富栄
今日は、太宰の愛人・山崎富栄が、1947年(昭和22年)11月24日から11月30日までに書いた日記を紹介します。
今回紹介する日記の直前、同年11月17日から11月23日までに書いた日記については、11月19日の記事で紹介しています。
十一月二十四日
主なる汝の神を試むべからず。
わがために人汝らを罵 り、また責め、詐 りて各様の悪しきことを言うときは汝ら幸福なり。
義
悪しき者に抵抗 うな
汝らの仇を愛し
汝らを責むる者のために祈れ。
汝らもし人の過失を免 さば
汝らの天の父も汝らを免 し給わん。
隠れたるに在 ます汝らの父
隠れたるに見たまう汝の父
われに対 いて主よ主よという者
ことごとくは天国に入らず、ただ
天にいます我が父の御意 を
おこなう者のみ、これに入るべし。
雨降り漲 り、風ふきて其の
家をうてど倒れず
これ磐 の上に建てられたる故なり。
それは学者らの如くならず。
権威ある者の如く教え給える故なり。
11月24日付の日記に書かれているのは、『新約聖書』ー「マタイ福音書」第5章から第7章の中からの抜粋です。
太宰は、1936年(昭和11年)の東京武蔵野病院への入院体験をもとに書いた小説『HUMAN LOST』で、次のように記しています。
聖書一巻によりて、日本の文学史は、かつてなき程の鮮明さをもて、はっきりと二分されている。マタイ伝二十八章、読み終えるのに、三年かかった。マルコ、ルカ、ヨハネ、ああ、ヨハネ伝の翼を得るは、いつの日か。
太宰は、その作品の中で『新約聖書』をたびたび引用していますが、「マタイ福音書」からの引用が最も多く、その中でも特に第6章の引用回数が群を抜いています。「マタイ福音書」の第5章から第7章は、
同年3月27日、はじめて太宰と富栄が出逢ったとき、太宰は富栄に「聖書ではどんな言葉を覚えていらっしゃいますか」と尋ねたといいます。YМCA(キリスト教女子青年会。日本では1905年に始まった。初代会長は津田梅子)に通い、聖書や英会話にも通じていた富栄ですが、太宰から
十一月二十五日
いい反省になった。斜陽の検印(二万)を持って修治さんと御一緒に東京へ出掛ける。車中、吉祥寺で乗り換えて坐る。(修治さんの御体を思って、立ち通しではお疲れになるのもひどいのではないかしらと考えたので)
文芸春秋をお読みになっておられた。私は拝借した苦楽の隅田川についてのところをよむ。読み切らぬうちにお茶の水へつく。区役所前まで歩いて、本郷区役所に御一緒に入る。
私の戸籍(山崎入籍)の手続きが終わるまで待っていてくださる。私のような健康な者にも重く感じられるオーバーをお召しになっていられるので、心配なのだけれど、八雲まで歩くと仰言るので、ボツボツ出掛ける。
帝大前あたりから、奥様の御弟様がいられるので、万一のことがあるといけないからと、いつものように左側と、右側の歩道にお別れしていく。それこそ堂々とした歩きようではなく、少しうつむき加減にして、大学の方を眺め廻しながら、コツコツと軍靴を運んでいらっしゃる。
ニ、三間後ろの方から歩く心もちで、私は左側の舗道から修治さんをみつめていました。
肺病。不治の病だと信じ切っていらっしゃる。でも、あんなに事件が重なってあったのに、生きていられる。
神様があの方についていられるような気がしてしようがない。
水菓子屋さんの横を左に折れて、二又道を右に進み、二つ目の横丁を左に曲がると、すぐ八雲書店が見つかった。
亀島さんが二階から下りて来る。
「サッちゃんが表にいるよ」
「ああ、どうぞお入り下さい」
「先日は失礼いたしました。また御本を御心配下さいまして有難うございました」と”道鏡”を御送りくださった御礼を述べる。
社長室兼応接室のようなところに通されて、一ぷくなさる。
全集の御相談に時をすごしてから、編集部の皆さんと談話。
ここの編集部の方々のチームワークはとても静かで美しいバランスがあって、うれしかった。
一人ひとりの誠実なものが、私達の身に沁むような思いがした。
みなさん、いい人達だ。
三時に新潮と御約束があるので、急いで車を拾い、乗りつける。
小雨の中を、あのダラダラ坂を歩くのはお病身の修治さんには大敵々々。
野平さんが二階からおりてくる。社長さんだという若僧(悪いかな)とつまらないお話。
林さんもチラリチラリ用事を持って出入りなさる。少し太ったような感じ。
顔色の蒼い人だと思っていたけど、今日お目にかかったら、天然の頬紅が広くついているので、ガッカリした。太宰さんも私も、あまり赤ら顔の方ではないからかもしれないけど。すぐに席を千歳に移して飲みはじめる。ここのマダムは、はじめ十八、九位のひとかと思っていたら、どうも私位の年配の方らしい。何しろ断髪なのでね。
夜分、眼鏡をかけないので、あまり周囲の人に注意をはらわなかったら、西田さんに御挨拶されて、失礼してしまった。
修治さんがおきらいなので、よしているので時々これからも失礼することがあるのではないかしら。気をつけなければいけない。
ビールにジンをおのみになって、珍しく先にちょっと横におなりになる。
我が身に覚えのない病いを心配してはいるけれど、どうしたらよいやら分からない。
病気について、創作上の苦悩について、家庭について、血のつながりのことや、もちろん芸術のことについてではあるけれど、黙って悩んでいらっしゃる御様子を拝していると、サッちゃんには何故一つでもお役に立つことがないのかしらと、いらいらして、修治さんが可哀想になってくる。
修治さんは、わたしなどどんなに身も心もささげつくしておつかえしても、心の癒されることはないのでしょう。
よく「天才だよ」と仰言るけれど、人間としたら、一番神に近い苦悩を負って生きていられるおかただと思う。
母のように、乳母のように、妹のように、姉のように、子供のように、恋人のように、妻のように、愛して、愛して、愛していく。ほんの瞬間の憩いにでも、私がなることができれば、わたしはそれで、もういいの。
「貴女はお酒が強いですね」と言われながら、一行、新宿にいく。
三鷹まで野平さんが送ってきて下さる。お泊りになるものとばかり思っていたら、今日は帰りますと野平さんは、夜おそくお帰りになる。
蒼い顔をなさっていたし、平常よりも深く飲んでいられた様子だったし、御気分でも悪くなって来られたのでしょう。
注射をしてから、おやすみになる。
■三鷹の若松屋で 左から太宰、女将、新潮社の担当編集者、野原一夫と野平健一。撮影:伊馬春部。
十一月二十七日
お家へお帰りになっても、記者諸兄のために休養なされないからと、ずーっと横になったまま朝を迎える。
私のジャンバーを「丁度いいね」などと仰言り乍 ら、お召しになる。背広はあまり改まるし、第一、長時間着ていると、肩の凝ってくるものだ。
背広というものは、あれができたばかりの昔は、商人が着用するものだったとか、何かの本に書いてあったけど、私はМだし、陽気も急に冬めいて寒いので、「着物がいいだろう」と和服にする。
洋服だと、ガタビシ用事ができるけど、着物はあまり動くと、第一に衿もとが開いてきていやなものです。
三時ごろ野原さんを先頭に、井出さんと、お友達の方が約束通りおみえになる。
皆様御手持ちのお酒や、ハムや水菓子を広げて会は始まる。
随分お飲みになった。
いつも酒席の前には注射してから、
「お上手にお飲み下さいね」と申し上げるのだけれど、御気性の勝ったお方なので、御無理なされるのだ。
人のよろこびを我がものと思い、人の苦しみを身のものと感じとる。
汝を愛するが如く汝の隣人を愛せ。
神のみことばは悲しい。
■山崎富栄
十一月二十八日
昨夜、野原さんが、第一に腹痛。
実は私も痛んでいたのだけれど、黙っていた。
お薬のことで、あれこれ悲喜劇があってから、修治さんも痛いと言われて、とうとう本病人になってしまわれた。
アスピリン、健胃固腸剤、スパスモヒンをやたらに飲まされて、おふとんを被る。汗が体中にじっとりと出てくる。お熱も八度五分位はおありになったかもしれない。肺の方へ来ないかと、随分気をもむ。
野原さんがお帰りのあと、片付けも終わって、私も横になったけど、心配でたまらない。脈をとって、私のと合わせる。私のよりせいぜい数回多い位なので少し安心して、冷たいタオルを額におのせし、代わりをおいてやすむ。
カルモチンをお飲みになったせいか、お熱のせいか、ぐっすりと深く眠っていらっしゃる。
■鎮静 催眠剤 カルモチン。当時の広告には、「連用によって胃障害を来さず、心臓薄弱者にも安易に応用せられ、無機性ブロム剤よりも優れたる鎮静剤として賞用せらる。」と書かれている。
十一月二十九日
朝、すっかりお元気になって、お目覚めになってくださる。うれしいと思う。
早速おかゆに玉子を入れて召し上がる。
どうしてもお酒をお放しにならない。何かこれに頼って生きているお気持がおありになるのでしょう。
湯タンポを入れて、とっても長く、とっても深い眠りにはいられる。
じーっとお顔を眺めていると、私が修ちゃんのお母様かなんかのような気持ちがしてきて、「この子のために、この子のためには、どんな苦しみでも――」と胸の中があつくなってくる。
そんな気持ちでいるときに、突然お目ざめになって、「サッちゃん」などと言われると、「ううん?」なんて、まるで病気の甘えっ子に答えるような返事が出てしまって、心の中で赤面している。
御冗談ばかり、よく仰言られるので、ときおり、私も本気になってしまうと、寝ながら、掌の上で手紙の往復が始まる。
今日は少しも理解できない、ややこしいお話のようなので、紙とエンピツをお渡ししたら「シンジテ」と「バカ」と書かれた。二人で笑う。
「バカ」ということばは、最も嫌いなひとと、最も愛しいひとに使うことができるのだと思う。
夕方、寝ながら、私が再読している「斜陽」をとりあげて読んでいられたので、とりかえた湯タンポのお湯をもって、お洗濯にいく。
ねまきと、ワンピースを洗って、お部屋へ戻ってみると、ワイシャツを着ていらっしゃるので、「どうかなすったの、怖かったの?」というと、
「いや、斜陽を読んだら、いきり立ってきたんだ。こうしちゃいられない。もっといいものを書かなくては。後から来る人達のために、僕はもっといいものを書かなくてはならないんだ」
お召しになるお手伝いをしながら、
「本当におからださえ普通のひとのようであったなら、どれほど助かることか分からないのになあ、なんとかして快 くなっていただきたい」
⁂ ⁂ ⁂
上水の道を歩くお姿は、蒼白くて、軍靴が重そうで、オーバーも重そう。微風にさえも向かえないような、やるせない感じでした。可哀想で、情けなくて、男の友達のように、オイ君、大丈夫かい、と肩を叩いたら、泣き出してしまわれるような、心細い寂しさが私を掩 ってしまいました。
セハランチンの注射液がおありになるとかなので、太宰さんを愛している大勢の男のひとのために、大勢の女のひとのために、一日でも早く養生して、注射してみて下さるよう御願いする。
決定的に自分の体はもう駄目だと思っていられるけど、そんなこと分かりませんわ。自らを愛してこそ、ひとも愛せるものではないでしょうか。
滅私奉公なんて、第一自分がなくてはできませんもの。
頑張って下さい。修ちゃんの命は私が預かっているのですけど、私の命は、修ちゃんに預かっていただいているのですもの。
■太宰と知り合った頃の山崎富栄
十一月三十日
父から返事が来た。
⁂ ⁂ ⁂
修治様
私が狂気したら殺して下さい。
薬は、青いトランクの中にあります。
十一月三十日 富栄
「父から返事が来た。」とは、11月19日の記事で紹介した、富栄が11月20日付で両親に宛てて書いた手紙に対する返事のことです。太宰との愛人関係を認めて欲しいと両親に訴えた富栄ですが、父・山崎晴弘から届いた手紙には、富栄を戒める言葉が綴られていました。
11月30日付の日記は、「修治様 私が狂気したら殺して下さい。薬は、青いトランクの中にあります。」という言葉で締めくくられました。
【了】
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【参考文献】
・山崎富栄 著・長篠康一郎 編纂『愛は死と共に 太宰治との愛の遺稿集』(虎見書房、1968年)
・長篠康一郎『太宰治文学アルバム ー女性篇ー』(広論社、1982年)
・佐古純一郎 編『太宰治と聖書』(教文館、1983年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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