12月3日の太宰治。
1942年(昭和17年)12月3日。
太宰治 33歳。
井伏鱒二が徴用解除で帰国した。
井伏の徴用解除と母・夕子 の逝去
1942年(昭和17年)11月20日から11月30日までの間、太宰は、妻・津島美知子の実家である、甲府の石原家に滞在し、翌1943年(昭和18年)1月付で刊行される雑誌の新年号に掲載する3つの短篇『黄村先生言行録』『故郷』『禁酒の心』をここで執筆、脱稿しています。
太宰が甲府に滞在していたのと、ほぼ時同じくする同年11月22日、太宰の師匠・井伏鱒二が徴用解除で帰国しました。太宰は、甲府から帰京した同年11月30日以降、毎日のように井伏宅を訪問し、翌月の12月3、4日頃には、井伏と共に熱海に遊びにも行っています。
太宰は、高梨一男に宛て、同年12月4日付で、次のようなハガキを書いています。
東京府下三鷹町下連雀一一三より
東京市渋谷区幡ヶ谷原町八八八
高梨一男宛
拝啓 三十日に帰りました。そうして、すぐ井伏さんのとこへ行って、毎日あそんで、とうとう一緒に熱海へ行って来ました。ですから、ただいまちょっと疲れて居ります。十日すぎに、「実朝」の旅に出発しようと思っていますが、その頃になると貴兄もおいそがしくなるでしょうし、旅行は来年までのばしましょうか。貴兄の御都合次第で、いいのですけど。
とにかく。十日頃にでも、また逢いましょうか。お指図を下さい。 不一。
高梨との旅行の約束は、同年12月8日の夕刻、急遽実行に移されることになり、太宰は、一番弟子・堤重久も誘って熱海に赴きますが、旅館の玄関を登って座敷に入った途端、太宰の次兄・津島英治から知らせを受けて美知子が打った母・津島
電報を受け取った太宰は、すぐに東京に引き返し、急遽、単身帰郷します。
■太宰の母・津島
話は前後しますが、井伏の帰国を知り、連日のように訪問した太宰ですが、自らの抱える病気が原因で、ほかの文士たちと同様に徴用されず、1人残されたことに対するコンプレックスも、ずっと抱えていたかもしれません。
井伏は、肺湿潤の診断を受けたために、思いがけず徴用を逃れることになった太宰について、『太宰 治』に収録されている『戦争初期の頃』という文章で回想しているので、引用して紹介します。
昭和十六年十一月、私は陸軍の徴用令書を受取った。当時、徴用令書はほとんど旋盤工にされていた。だから私も、旋盤工にされるのだと思って、出頭を命じられた本郷区役所へ出かけると、武田麟太郎が私の先に門をはいって行った。控室にはいって行くと太宰君がいた。これを見て私は、陸軍も選りに選って資格の危い旋盤工を徴用したものだと思った。日頃の行状から見て、武田君が勤勉な職工になれそうにも思えない。太宰君は健康が悪く、また手先の仕事に自信がなくて、日頃から自分は熊の手のように無器用だと云っていた。
しかし徴用されたのは旋盤工になるためでなく、南方へ連れて行かれるためだとわかった。南方の瘴癘 の地へ行くのだから、不具の者または痼疾 のある者は、申し出よという云い渡しがあった。すると、これに応じる人が可成りいた。太宰君も申し出た。そのうちで、たいていの人はお国のために働ける体力があると診断を下されたが、軍医は太宰君の胸に聴診器を当てると、即座に、「これは駄目々々」と診断した。たぶん太宰君は、自分の痼疾 に対して複雑な気持を味わったことだろう。と云うよりも、このときくらい私は太宰君の痼疾 を羨んだことはない。
私はマレー派遣軍徴員として徴用され、昭和十七年の十二月までシンガポールにいた。したがって徴用一年間というものは、太宰君について何の知るところもない。ただ、軍事郵便が通じるようになってから、たまに来る太宰君の手紙で事情を察するだけであった。
月日は忘れたが、ロイドロードという坂町の宿舎に移って間もない頃、私は戦地で初めて太宰君からの手紙を受取った。その手紙に、田中英光という新人を見つけた喜びが書いてあった。まだ開花してはいないけれども真に新しい小説家を見つけたと云ってあった。その小説は「オリンポスの果実」という題で、「文学界」編輯当番の河上徹太郎に見てもらい、編輯同人の林房雄の賛成もあって、次の号の「文学界」に載ることになったので、是非とも読んで感想を知らせてくれと書いてあった。
その頃、輸送船は無事に航海を続けていた。「文学界」も毎月号が正確に届いていた。私は「オリンポスの果実」を読んだことは覚えているが、どんな感想を太宰君に書き送ったか覚えない。
■田中英光
矢張りその頃、太宰君のくれた手紙に、「自分は孤高でありたいが、こんなような時代にはそれが難しい」と云ってあった。私は陣中日記に「太宰君は孤高でありたいと手紙をよこした」と書きこんで、日本の雑誌か何かに発表した。すると太宰君から、「孤高でありたいと云ったのは事実だが、あんなことを発表されては困る。はずかしくてやりきれない。なんて気障な男だと人から思われる」という意味の抗議を云って来た。私の書きかたが無神経だとは云ってなかったが、煎じつめればそう云ってよこしたことになりかねない。
当時、太宰君は徴用を逃れたことを、何か後ろめたいことのように感じていたように思われる。何か身を小さくしている風で、私たちが東京駅を発つときにも姿を見せなかった。資産家に生れたということで、いつも後ろめたさを感じていた性根にも通ずるだろう。
もし、あのとき太宰君が徴用されて、派遣軍徴員になっていたらどうだろう。「惜別」も「ヴィヨンの妻」も「トカトントン」も、この世に出なかったろう。
井伏は「私たちが東京駅を発つときにも姿を見せなかった」と書いていますが、太宰はエッセイ『日記抄』に「皆様を見送りに東京駅に出掛け」たと書いていました。
■井伏宅で将棋を指す井伏と太宰
【了】
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【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・井伏鱒二『太宰 治』(中公文庫、2018年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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