12月5日の太宰治。
1947年(昭和22年)12月5日。
太宰治 38歳。
十二月一日から五日に書かれた、山崎富栄の日記。
富栄「修ちゃんを、守りたい」
今日は、太宰の愛人・山崎富栄が、1947年(昭和22年)12月1日から12月5日までに書いた日記を紹介します。
十二月一日
健康ということには、どうも、一つの無知が加わっているように思われるのだけど。
――治る、治らないのは問題じゃない。
治ろうとする努力の過程にこそ
価値があるのだ――。
⁂ ⁂ ⁂
『有能な読者は、他人の書いたものの中に、作者がこれに記し止め、かつそれに具 わっていると思ったものとは別個の醍醐味をしばしば見い出して、それに遙かに豊かな意義と、相貌とを与えるものである』――モンテーニュ――
視 よ、我なんじらを遣わすは、羊を狼のなかに入るるが如し。この故に、蛇の如く慧 く、鳩の如く素直なれ、人々に心せよ、それは汝らを衆議所に付 し、会堂にて鞭うたん。また汝らわが故によりて主たちの前に曳 かれん。これは彼らと異邦人とに証をなさんためなり。かれら汝らを付 さば、如何なることを言わんと煩うな。言うべきことは、そのときさずけられるべし。これ言うものは汝らにあらず、其の中にありて言い給う汝らの父の霊なり。兄弟は兄弟を。父は子を死に付 し、子どもは親に逆らいてこれを死なしめん。又なんじら我が名のために凡 ての人に憎まれん。されど終まで耐え忍ぶものは救わるべし。この町にて責めらるるときは、かの町に逃れよ。誠に汝らに告ぐ。汝らイスラエルの町々を巡り尽くさぬうちに人の子は来るべし。
11月30日の記事で紹介した、同年11月24日付の富栄の日記にも登場しましたが、12月1日付の日記にも『新約聖書』から引用されています。今回、引用されたのは「マタイ福音書」第10章16節から23節です。「マタイ福音書」第10章には、イエスが弟子たちを伝道旅行に派遣する際の訓示の言葉が記されています。
十二月二日
われ、山にむかいて目をあぐ。わが扶助 はいずこより来たるや。わが扶助 は天地をつくりたまえるエホバより来たる。エホバはなんじの足のうごかざるるを容 したまわず、汝を護 るものは、微睡 みたまうことなし、視 よ、イスラエルを守りたまうものは、微睡 むこともなくねぶることもなからん、エホバは汝を護 る者なり。エホバは汝の右手をおおう蔭なり。ひるは、日なんじをうたず、夜は、月なんじをうたじ、エホバは汝を守りてもろもろの禍害をまぬかれしめ、並 なんじの霊魂 を護 り給わん。エホバは今よりとこしえにいたるまで汝のいずると入るとを守りたまわん。
詩篇一二一
⁂ ⁂ ⁂
このごろ、お顔のむくみが一きわ目立って感じられてくる。
お風邪気味でもいられるし、両方の胸は妙布だらけ。
限りある身の力試さん、といつも仰言ってはいられるのだけれども。
堤さんの御便りを拝見させて下さる。
本当によいお方なので、なんだか目頭が熱くなってきた。
■「堤さん」こと、太宰の一番弟子・堤重久
――先生は短気――ほんとうに。
――キリストだって――ほんとうにキリストだって、一度にザアッとなさったのではなく、追われたりしながらも、気長く、歩いていかれた道なんですもの。
よい作品をお書きになる、ということは一番大切なことですけど、お体だって大切です。大勢の方が心配なさっていらっしゃるんですもの。
御存知でいらっしゃるのに、ホラ、右がいけなくなってくるじゃありませんか、ああ、お顔がむくんできたではないの、養生できないのね……あなたは、ホラ、右が……。
「寝よう」
「おやすみになります?」
「昨夜も一睡もできなかったんだ」
「お薬は?」
「もうない」
お話ししながらおふとんを敷く。横になりながら、
「昨日、一日何をしていたと思う?」
「分からないわ」
「日本小説のひとがね、ロンドンのジンを持って来たんでね。飲んではグーグー眠り、さめると、また飲んでいたんだ。まったく一日中ぐうたらな生活をしていたんだよ」
「一本全部空けてしまったんですか」
「うん」と笑ってうなずかれる。
「いやねえ、一生懸命注射したり、お薬を探したりしているのに、御自分でちゃんとなさらないんですもの」
⁂ ⁂ ⁂
「わたし、修ちゃんを、いろいろなものから守りたいと思っているの。私以外の女のひとなんていうんじゃないわよ。力がないんですもの。でも、努力だけはしているつもりなのよ。」
「分かっているよ」
――モルヒネ中毒になられたことがあるというのに、また、睡眠薬を飲まれていられる。いいのかなあ。
富栄が12月1日付の日記に続いて引用している「われ、山にむかいて目をあぐ。」からはじまる言葉。これは、『旧約聖書』の「詩篇」121篇1節から8節の引用です。
「われ、山にむかいて、目を
■山崎富栄(20歳の頃)
十二月五日
女ひとりというものは、侘 しいものだなあ。
お目にかからない日がつづくと、もう駄目になってしまいそう。
良人として、妻としての生活に入るのが、私達の本当の姿だったのかも分かりません。
「妻や子供と別れて、君と一緒になってみても、周囲からの攻撃は、君を一層に苦しい立場にするだろうしなあ」
「いいえ、そんなこと、わたしにはできません。奥様に申し訳ありません。わたしはこのままの形式でいいのです。本当に、あなたの仰言るように、十年前にお逢いしとうございました」
⁂ ⁂ ⁂
かくてのみ有りてはかなき世の中を
うしとや言わん哀れとや言わん
神といい仏というもよのなかの
人の心のほかのものかは
――右大臣実朝
⁂ ⁂ ⁂
八雲の亀島様おみえになる。
四日――五日、御不在。
生きていて
ひとりでいて
ぽつんとしていて考える
……………………
はかなさが身にしみてきて
いっそ、と
……………………
苦しみも、侘 しみも、悲しみも……
ああ、ひとりしずかにいることの
侘 しさ
修治さん!
……………………
エイ、エイ、オウ、ホップ、ホップ、ハッ……
⁂ ⁂ ⁂
どうにもいたたまれなくなってきて
真暗な夜路を歩いていく
なにか、面影のような
そんなものにでもふれれば、と
お玄関の前に立ってじーっとしてみている
ほの暗いランプが、二つ
灯っている灯は、いらっしゃるし
ささやき、もしも?
いや、いや、やはりちがう
奥様と、お客様のおはなしだった
ご免なさい、おくさま
古田さんがお手紙を持ってみえる。
丁度わたしが帰ってきて、これを書いていたところ。
いやよ、いやよ、いやよ。十日もお逢いできないなんて。いやよ、いやよ。
わたし、先に死にたい。ガマンなんかいやよ、いやよ。
■「古田さん」こと筑摩書房の社長・古田晁 古田の計らいで、翌年1948年(昭和23年)に太宰は熱海・起雲閣と大宮で『人間失格』を執筆しますが、富栄を同伴させたのは、このような反応があったためか。
⁂ ⁂ ⁂
羽左さん
泣かせちゃいや
しっかりしてくださいねえ
ちょうどおまえさまの家の前から
帰ってきたらあの飛脚
わたし
ほんとに
もう
おまえさまとは一つわらじの旅の者
どうぞして
早く癒してくだしゃんせ
五日 よる
梅 幸
⁂ ⁂ ⁂
アヤマッタ
クスリヲ
ノンデ
マル三日
仮死デシタ。
シッパイ。
字がマダカケヌ。
手が言ウコトヲ
キカヌノデス。
モウ十日
マッテクレ
ガマン
最後のカタカナを交えた部分は、太宰から富栄に宛てた手紙でした。
日記中の「十年前」。この日記が書かれたほぼ10年前の1938年(昭和13年)、太宰と妻・津島美知子がお見合いをしていた頃でした。
【了】
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【参考文献】
・山崎富栄 著・長篠康一郎 編纂『愛は死と共に 太宰治との愛の遺稿集』(虎見書房、1968年)
・長篠康一郎『太宰治文学アルバム ー女性篇ー』(広論社、1982年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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