記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】2月4日

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2月4日の太宰治

  1939年(昭和14年)2月4日。
 太宰治 29歳。

 二月四日付、井伏鱒二宛、竹村坦(たけむらたん)宛書簡によれば、この頃某雑誌社に送ってあった原稿百枚が紛失。竹村坦に三月末日まで原稿送付の延期を申し入れた。

「原稿百枚紛失」事件

 なんと、1939年(昭和14年)の今日、太宰の原稿が紛失する事件が起こります。これは、竹村書房から刊行され、太宰にとっては第四創作集となる『愛と美について』(「読者に」「秋風記」「新樹の言葉」「花燭」「愛と美について」「火の鳥」収載、1939年)の出版準備をしている時のことです。

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 太宰は結婚後早々、「竹村書房から、『委細承知した、原稿送れ』という電報まいりましたので、不取敢(とりあえず)、原稿整理にとりかかって居ります。一週間以内には竹村に送付できると思います」(1月24日付)と意気込んだ手紙を師である井伏鱒二に送っています。
 しかし、その11日後。太宰が、井伏に送った手紙がこちら。

  甲府市御崎町五六より
  東京市杉並区清水町二四 井伏鱒二

拝啓
 雑誌社で、私の原稿百枚を紛失いたし、只今も、八方捜査の模様で、その責任者からも、誠心誠意の、おわびの手紙も来て居りますし、私はあきらめようと思っています。
 災難は、いたしかた、ございません。あまり外部に知られると、その責任者も、くるしい立場になるだろうと思いますし、私は、このこと誰にも言わぬつもりで居ます。井伏様も御内密にねがい上げます。誰がわるいというのでも、ございません。責任者も、日夜、心をくだいて、警視庁にまで、たのんだそうですが、どうやら絶望らしく思われます。
 その責任者にも、「災難は神様でないかぎり、誰にでもあることなのだから、決して、思いつめては、いけませぬ。」と私の心のままを、きれいにあきらめていることを、そのまま言って、なぐさめてあげました。
 竹村書房へは、ほんとうにお気の毒で、「イサイ承知、原稿すぐ送れ」と電報よこして下さって、私も、「それではお約束します、一週間以内に原稿まとめて送ります、」と約束の挨拶はっきり書いて送り、とにかく原稿百五十枚は、すぐそろいましたが、あとの百枚は、なかなか送ってもらえず、案じて居りましたところ、右のような事情判明したのです。
 百枚を、いますぐ、書き上げるのも、たいへんですし、もう、二ヶ月くらい、竹村氏に待ってもらうよう、私、これから竹村氏に、おわびと、お願いの手紙、出してみます。
 せっかく井伏さんのお言葉にて、私もはり切って居りましたところ、こんなことになって、――でも、旧稿は、思い切って捨てるべし、ただ、筆硯(ひっけん)をあらたにして新稿に努めよ、という神様の指図なのかも知れぬと思い、遅筆をふるって、仕事つづけてゆきます。
 私事をのみ、書きつらね、ごめん下さいまし。
 兄上様の御不幸にて、さぞお心むすぼれがちのことと深く深く拝察申し上げます。
 どうか皆様、御元気にて、わたらせられるよう、祈って居ります。
 私、こちらの仮住居にて、いまのところ身辺の不自由も、ございませぬゆえ、もし、お邪魔でなかったら、いま二、三ヶ月、私の机やら行李やらごたごたのもの、物置に、放置しておいて下さいませんでしょうか、おねがいいたします。また、為替(かわせ)、もしできるなら、家で直接こちらへ送って呉れたら、お手数ずいぶん省けて、このうえないので、ございますが、私の家では、まだまだ、私を全く信用して、直接送るように、しては呉れないのではないか、と思います。それは、むずかしいことのように思います。ほんとうに、その都度その都度、お手数おかけいたし、さぞわずらわしゅう、ございましょうが、どうも、直接送ってもらうこと、困難のように、思います。三月には、中畑氏が甲府へおいでの由、そのとき私からも、伺ってみますから、どうか、もうしばらく、さぞ、お手数でございましょうが、いままでどおりにして、お助け下さいまし。
 英之助氏、二月十八日に、甲府へ須美子さんを受け取りに来ることきまって、これで四方八方円満、齋藤さんの奥様も、ごきげんなおって、なによりのことと、私まで、よろこんで居ります。英ちゃんと、齋藤家の間に立って、私もいささかはたらき致しました。少しは私でも、ものの役に立って、私の、うれしゅうございます。
 私たち、至極、健康で、私は、ふとったそうです。それから「文体」のこと、編集部と、それから北原武夫という人も、二方面から、「指定の箇所、必ず訂正して置くから、安心するよう」ていねいに御返事いただきました。私も安心いたしました。
 ほんとうに、二月号は、失礼いたしました。繰りかえし、衷心(ちゅうしん)より、おわび申します。
 奥様へも、御不幸に負けず、お元気いらっしゃいますよう、よろしく御鳳声(ごほうせい)下さいまし。

 月末の書留、昨夕、ありがたく頂戴いたしました。
 ほんとうに、お元気で、陽春、お迎えなさいまするよう。
                  修治拝
   井伏鱒二

 そして、これと同日付で、「おわびと、お願いの手紙」として、竹村書房の竹村坦(たけむらたん)宛に、贈った手紙がこちらです。

 甲府市御崎町五六より
 東京市四谷区北伊賀町一二 竹村書房 竹村坦宛

 謹啓
 昨日、某雑誌社々員より、私の原稿紛失のこと聞かされ、呆然として居ります。その原稿は百枚のものにて、その雑誌社に送って在ったものを、「こんど竹村書房から書下し短篇集出すことになったから御返送たのむ」と手紙やら、速達ハガキ、電報やらにて再三再四たのんでやったのですが、ただいちど「少しお待ち乞う」という電報のあったきりで私も心配していたのですが、昨日、その責任者より長い手紙いただきました。雑誌社のほうでも私の申入れは快く聞きとどけて下さって、さて原稿送りかえそうとして、その原稿紛失している、それから八方捜査し、殊にもその責任者は、日夜心をくだいて捜し、歩きまわり、警視庁にもたのんであるそうです。なおも捜査つづけている模様ですが、その責任者はまじめの人ゆえ、心痛悶々の有様そのお手紙に依ってよく判り、「もし原稿が出て来なかったら、その結果どういうことになるのか、自分にもわかっては居ります。あらゆる責任は負う決心です。物質上のことでしたら、どの様にもできるだけのことを致します。しかし原稿のことですので、、あなたの御心痛を思うと、どんなことをしていいかわかりません。できるだけの努力をいたしますから、どうかいま暫くお待ち下さるようお願いいたします、云々」とか、その他、誠意こめて詫びているので、私も、かえって同情して、「私もきれいにあきらめますから、必ず思いつめてはいけませぬ。災難は、神様でないかぎり誰にだってあるのだから」となぐさめの返事かいてしまいました。あの原稿なくされては、じっさい私もはらわた焼かれる思いで、泣くに泣けない気持ですが、どうにも致しかたございませぬ。私としては、一ばん愛着深い作品だったのです。
 右、事実と一点のちがいございませぬ、念のため、その責任者の長い手紙も同封してお送りしようかと思いましたが、このこと外部に知れ渡ると、或いはその人、重大の立場に落ちるのではないか、と思われますし、その人にも、「このこと外部に知れ渡ると、貴兄にわるい結果になるようでしたら、私も黙っていましょう、誰にも言いませぬ」と書いてやりましたので、その人の手紙同封することやめました。竹村様皆様に於いても、その辺のこと御賢察の上、なるべく紛失事件、口外下さらぬよう、私からも、きっとお願い申し上げます。
 出版のこと、原稿百枚足りなくなって、之は、一時延期を願うよりいたしかた無き有様、さぞ、いろいろの手違い生じることでございましょうが、こんな思いもかけぬ事件にて、どうにも他に仕様なく、おわび申し上げます。
 ただ、ただ、おゆるし願うより他いたしかたございませぬ。
 ことし三月末までには、書下ろしのもの、また二百五十枚くらいにまとめて、そのときには、きっと今よりよき内容にてお願いしようと存じて居ります。
 決していつわりや出鱈目申して居りませぬ。雑誌社の名前や、その責任者の名前を、はっきり申し上げれば、私の立場も身軽くなるのですが、それは、私にはできませぬ。ひとを、かばうということもくるしいものですね。
 それで、いかがでしょうか、こうしていただきたい。今までの行きがかりの約束やら、内容、装丁、定価など、皆きれいにいちど解消して、あらためて私からお願いいたします。ことし三月末までに、私、自信ある書き下しの作品まとめて、上京し、その原稿全部まず竹村様へお渡しいたし、竹村様は、とにかくそれを御一読のうえ、その出版を、お引き受けか、お断りか、それは竹村様御自由にきめて下さって、もし、竹村様が、その私の作品を気に入って、出版してもいいとなったとき、私、また上京して、いろいろ細部のこと相談する、ということいかがでしょう。もちろん私は、それまでには、他の出版店から、どのような本も出版いたしませぬ。ことわるつもりです。これは、はっきりお約束できます。
 いかがでしょうか。いまの私には、それより他に、竹村様の御厚情にお報いするすべ知らないのです。
 どうにも、とんだ災難で、けれどもこれを機会に私も勇をふるい起し、いい作品できたら、このわざはいもまたあながち悲しむべきものでないかも知れませぬ。意あまって、言葉足りず、隔靴掻痒の感ございますけれど何とぞ、私の窮情も御賢察下され、このたびの手違いおゆるし下さいまし。
 必ず、このつぐない立派に致しますゆえ、あと二月お待ち下されたく、また、万々一、紛失の原稿発見されたときには、万歳です。
 そのときには、勿論すぐにお送りいたします。けれども最悪の場合を予期して、完全に紛失してしまったものと、男らしく覚悟をきめて、私は、明日から、また新稿に着手するのです。大地震に遭ったと思って、あきらめました。
                 治 拝
  竹村 坦 様

 だいぶ長い引用になってしましましたが、焦りながらも方々に気を配る太宰の様子が伝わって来ます。

 ちなみに、この「原稿百枚紛失」事件について、相馬正一は著書『評伝太宰治の第三部で、「 この『紛失』した百枚の原稿がどんな内容のものであるかは明かされていないが、この時期の太宰の執筆状況から判断すれば、『愛と美について』収録作品以外に余分に書き溜めている未発表原稿があったとは思えない」と書いています。
 この事件の約3ヶ月後。1939年(昭和14年)5月20日付で『愛と美について』は、竹村書房から無事に刊行されています。

 【了】

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【参考文献】
相馬正一『評伝 太宰治 第三部』(筑摩書房、1985年)
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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