記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】2月5日

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2月5日の太宰治

  1942年(昭和17年)2月5日。
 太宰治 32歳。

 阿佐ヶ谷将棋会で、上林暁(かんばやしあかつき)小山捷平(きやましょうへい)青柳瑞穂(あおやぎみずほ)安成二郎(やすなりじろう)、浜野修と名取書店の林宗三の案内で、総勢七人、奥多摩御嶽(みたけ)に遊んだ。会費五円。多摩川も渓谷伝いに御嶽まで歩き、御嶽橋の袂にあった蕎麦処玉川屋で手打蕎麦を食べ、将棋を指し、従軍中の小田嶽夫井伏鱒二の二人へ慰問の寄せ書きをし、「川沿いの路をのぼれば/赤き橋 またゆきゆけば/人の家かな」と記した。この時は安成二郎が写真を撮った。九時、暗闇の中帰途に着いた。九時二十六分御嶽駅発車。車内で弁当に持って来たにぎりを食べた。

太宰の御嶽ハイキング

 「阿佐ヶ谷将棋会」(阿佐ヶ谷会)とは、中央線沿線・阿佐ヶ谷界隈に住む文士の交流の場として、戦前から戦後にかけて、30年以上も続けられた会です。
 メンバーの一人だった安成二郎は、エッセイ太宰治君の写真』で、「酒も将棋も好きで、人柄も人望もある井伏君中心の会といっていい。だから皆個人的に井伏君と親しい人の集りで、従って酒を飲むか将棋をやるか、どっちかで井伏君とウマの合う人々で、大概どっちも一と通りいける」と紹介しています。

 1942年(昭和17年)の今日、阿佐ヶ谷会の7人は、奥多摩御嶽に向かいます。
 この日の様子を、メンバーの上林暁がエッセイ奥多摩行」に書いているので、引用しながら紹介していきます。

 阿佐ヶ谷会で、奥多摩へ行ったのは、二月五日だった。名取書店の林宗三君の案内で、御嶽駅前の玉川屋で手打蕎麦を食い、梅も見るのであった。雪は残っていたが、立春早々の好い日であった。
 零時三十分に、立川駅ホームに参集するはずだったが、荻窪駅を出た時は、すでに零時を十五分過ぎていた。置き去りを食うかなと心配していると、同じ省線の車室に、参加者の一人である小山捷平君の姿を見つけて、ホッと安心した。同じ思いの小山君も僕に声をかけられて、ホッとしたらしかった。
 立川駅のホームには、すでに、安成二郎、浜野修、青柳瑞穂、太宰治、林宗三の諸氏が、待ちかねて立っていた。ただちに、満員の青梅電車に乗り込んだ。

 上林と小山は、集合時間に遅れて立川駅に着いたようですが、太宰は時間に遅れることなく到着していたようです。

 「終点から一つ手前の沢井駅」で下車し、ハイキングをはじめます。ちなみに、立川駅から沢井駅までは、約1時間の電車旅です。
 一行は、寒山寺などを眺めながら、「川沿いに岩角伝いの路」を歩いていきます。

 河原の岩の上に並んだところを、安成さんが写真に撮った。それから河原に坐って、林君の持って来た海苔巻(のりまき)を食べた。太宰君は、玉川屋の蕎麦や酒のことを知らないで、寒山寺で今日の遠足は終わりかと思っていたといったので、皆が笑った。

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■御嶽ハイキングの途上、多摩川の河原の岩の上で。右から浜野修、林宗三、青柳瑞穂、上林暁太宰治木山捷平。安成二郎撮影。

 その日の予定もよく知らずに参加してしまう太宰、なんだかお茶目です。

 御嶽橋に辿りついて、橋の上でまた写真を撮った。橋のむこうに渡ってみたかったけれど、とうとう渡れなかった。橋のむこうに心が残った。

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■御嶽橋の上で。右から浜野修、上林暁太宰治、青柳瑞穂。安成二郎撮影。

 そして一行は、いよいよ本日の目的地である「玉川屋」に到着します。
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 玉川屋は、1915年(大正4年)創業。店舗は当時のままではないそうですが、見事な茅葺(かやぶ)き屋根に趣が感じられます。

  玉川屋は、茅葺きで、宿場の面影が感じられ、土間の障子には、青柳氏が目を停めたりしていた。青柳氏といえば逸早く、床に置いた釜に目をつけていた。玉川屋の老主人は、釜の蒐集家(しゅうしゅうか)で、奥多摩の谷合いにある釜は、大抵漁り尽しているとのことである。
 僕たちが通された部屋は、往還の上になっており、谷を隔てて、杉山に対していた。将棋をさしているうちに日が(かげ)って、山や谷や、終着駅付近の家並が静かに暮れてゆく頃には、山里の寒さが身に沁みて、皆オーバーをひっかけた。実際、静かに寒く暮れて行った。山の黒い姿と白い(まだ)らな雪とを、皆の心に残しながら。
 酒の肴に、(ふき)(はや)の焼いたのなど出て、僕たちは二月を礼讃した。二月という月は実につまらない月だけど、また好いというのであった。最後に蕎麦が出た。(ざる)蕎麦と蕎麦とろで、皆が三杯も四杯も食べた。五杯も食べた人もあった。どこで活躍しているか知らないが、従軍中の井伏鱒二氏と小田嶽夫氏へ寄せ書きをしたためた。

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 誰が何杯食べたのかは書かれていませんが、もしかしたら、「五杯も食べた人」は太宰だったかもしれません。
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 これは、玉川屋で撮影された太宰の写真です。
 この写真について、撮影した安成二郎は、エッセイ太宰治君の写真』の中で、「(こと)に太宰君のは、玉川屋についてくつろいでいる姿を一枚とってある。左の(ひじ)を欄干にかけて右手を握り、窓外の山を見ている顔が穏やかな微笑をたたえている。途上で皆と一緒にうつしたのが四枚あり、その太宰君はむしろ憂鬱(ゆううつ)なしかめっ面をしているが、この一人写しの太宰君は(すこぶ)る明るい表情である。その日は快晴で、太宰君は和服を着ていたので、この写真が一そうくつろいだ姿を見せている。」と撮影時の様子を回想しています。

 暗くなるまで玉川屋で過ごした一行ですが、玉川屋の若主人に御嶽駅まで見送ってもらいながら、帰途につきます。

 九時二十六分御嶽駅発車。車内で、太宰君が弁当に持って来たおむすびを食べていた。アパートで独り暮しをしている安成さんが一包みもらって、あすの朝の食事が出来たと言って、喜んでいた。
 十時半頃、立川駅に着いて、小山君と二人で酒の後の水をちょっと飲み、省線ホームに行ってみると、皆発車したあとであった。またしてもおくれてしまった。省線電車の赤いテール・ランプが遠ざかってゆくのを見ながら、小山君と二人で腐って、十五分ばかり次の電車を待った。
「一度遅れる人は、二度遅れるなア」と青柳氏が後で言ったそうである。

 果たして、帰りの電車内でおむすびを頬張っていた太宰は、電車を待たずに帰れたのでしょうか。

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
青柳いづみこ川本三郎 監修「『阿佐ヶ谷会』文学アルバム」(幻戯書房、2007年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「元祖手打そば 玉川屋」(https://tamagawa-ya.com/
 ※画像は、上記参考文献より引用しました。
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