記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】1月4日

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1月4日の太宰治

  1939年(昭和14年)1月4日。
 太宰治 29歳。

  甲府市西竪町九三 壽館より
  東京府大島元村 柳川館本館 
   高田英之助宛

 大島に居るとは、知らなかった。十二月三十一日、君とお逢いするのをたのしみにしていたのでした。おからだ、大事にしていて下さい。
 すみ子さん、ずいぶんしょげていて、毎日うつうつして居られる様子で、とても見て居られません。これは、ただ、私一個人の、気持ちだけだから、君にお願いするのですが、もし君が、もっと長く大島に居られるようなら、すみ子さんを、一日でも二日でも、そっと大島に呼んでやりたまえ。君が、もし、その気なら、僕に知らせてくれれば、僕は、齋藤さん御一家へ、そのように談判して、すみ子さんを君のところへ、旅立たせるよう、とにかく、やってみるつもりだ。
 僕の結婚式は、井伏氏宅にて八日、同席六人、スルメをさかなに簡素にしていただけるようになって、井伏様大明神です。結婚したら、甲府へ、すぐ五、六円の小さい家借りて、女房は手なべです。「どうにか、なる。」これを信じたまえ。勇敢に、そして御自愛を。

太宰結婚の立役者・高田英之助

 今日取り上げたのは、1月4日付、高田英之助に宛てて書かれたハガキです。

 師匠・井伏鱒二が、太宰と石原美知子との結婚を仲介したことは有名ですが、実はその裏には、井伏に石原美知子を紹介した高田英之助(たかだえいのすけ)(1919〜1991)の尽力がありました。

 高田英之助は、井伏と同じ広島県の出身。兄・高田類三(嘉助)が井伏と福山誠之館中学校時代の同級生で親友だったことから、少年時代から井伏との親交がありました。
 高田は、府中中学を経て、1937年(昭和12年)に慶應大学文学部国文科を卒業。東京日日新聞社(現・毎日新聞)の記者となり、甲府支局へ配属に。この頃、井伏を介して太宰と知り合いました。太宰、伊馬春部(鵜平)と共に、「井伏門の三羽烏(さんばがらす)と呼ばれたそうです。
 1938年(昭和13年)7月、井伏は甲府支局にいる高田に、太宰の嫁候補を探すよう依頼します。高田の許嫁(いいなずけ)が、甲府の交通網を担っている御嶽(みたけ)自動車の社長・斉藤文二郎の長女・斉藤須美子であり、地元の名士の人脈を頼ってのことでした。
 須美子は、甲府高等女学校で二年後輩の石原愛子に適齢の姉・美知子がいると紹介し、太宰の結婚話が始まりました。美知子は26歳。甲府高等女学校を出て東京女子高等師範(現・お茶の水女子大学)を卒業し、山梨県立都留高等女学校に勤めていました。翌1939年(昭和14年)1月、太宰と美知子は井伏夫妻の媒酌で結婚式を挙げます。
 高田は、1937年(昭和12年)にはじまった日中戦争で、甲府連隊付の記者活動をしていたため、昼夜問わずの激務で体を壊し、病気療養のため、須美子を甲府に残して、単身で大島に渡りました。太宰は高田を心配し、励まし、二人で暮らすことを勧める書簡を数多く送っており、今回紹介したのは、その中の一通です。

 ちなみに高田は、1939年(昭和14年)12月に須美子と結婚しています。
 太宰は高田の結婚を祝し、12月15日付で、

  待ち待ちて ことし咲きけり 桃の花
  白と聞きつつ 花は紅なり
  不取敢(とりあえず) 衷心からの祝意
  奥さまには くれぐれもよろしく。
   春服の色 教えてよ 揚雲雀

という詩を添えたハガキを送っています。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
猪瀬直樹ピカレスク 太宰治伝』(文春文庫、2007年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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