2月10日の太宰治。
1936年(昭和11年)2月10日。
太宰治 26歳。
佐藤春夫の紹介で、「ちょうど独逸から帰朝」した、佐藤春夫の実弟佐藤秋雄の勤務する、芝区赤羽町一番地の済生会芝病院病棟に、十日間の約束で入院。「麻薬診断ノ為」という。
太宰の芝済生会病院入院
この頃、太宰は、師と仰ぎ、芥川賞の
●佐藤春夫に宛てた4mの書簡。1936年(昭和11年)1月28日付。
●佐藤春夫に宛てた1mの書簡。1936年(昭和11年)2月5日付。
太宰はこの前年に発症した、急性虫様突起炎と、併発した汎発性の腹膜炎の治療中、患部の疼痛鎮静のために医師が注射したパビナール(麻薬性鎮痛鎮咳剤、正式名:日本薬局複ヒコデノン注射液)の中毒となっていました。
2度にわたって芥川賞を懇願する手紙を受け取った佐藤は、太宰にすぐ自分の自宅に来るようにと連絡をします。
佐藤からの連絡を受けた太宰は、2月7日付のハガキで、すぐに返信します。
拝啓。
それでは八日の三時に。
お叱りにならないで。
御心配をおかけして、
穴あれば、はいりたき
心地でございます。
2月8日の午後3時、芥川賞についての話をされると期待して東京市小石川区関口町二百七番地の佐藤宅を訪問した太宰でしたが、そこで告げられたのは、「パビナール中毒治療のためにに入院せよ!」という強い忠告でした。太宰は、入院の前夜に書いたエッセイ『
2月10日、太宰は、佐藤の実弟・佐藤秋雄が勤務する、東京市芝区赤羽町一番地の芝済生会病院に、10日間の約束で入院することになります。入院理由は、「麻薬中毒禁断ノ為」でした。
■東京武蔵野病院「津島修治(太宰治)殿病床日誌」より。写真の右上に、芝済生会病院に入院したことが書かれています。ここには、「全治退院セル」と書かれています。
入院中、様々な人が、連日のようにお見舞いに訪れます。
2月11日、伊馬春部・山岸外史
2月12日、浅見淵
2月14日、檀一雄
2月15日、佐藤春夫夫妻・檀一雄・小山祐士
2月16日、伊馬春部・檀一雄・山岸外史
2月18日、井伏鱒二
また、太宰は、入院中に佐藤春夫や山岸外史、浅見淵に宛てて、多数のハガキを書いています。
2月13日付、山岸外史宛のハガキには、
「僕は邪道ではない。僕はつねに正々堂々の道を歩いて来た。いまもまた歩いている。」
あの医者と、いま、又話し合ったが、きゃつは馬鹿だ。不正だ。ひょっとしたら、退院するかもしれぬ。おれは正気だ。
と書いていたり、2月16日付、佐藤春夫宛のハガキには、
きのうはあれから、一回も注射せず、頓服も、のまず、夜も、ふかく眠りました。佐藤さんと佐藤さんの奥様が来て呉れたからと、確信しています。やっぱり、愛情が ほしかったのですね、ほんとに。
と書いたりしています。
また、太宰は10日間の入院中、2度も病院を脱け出して、飲み歩いています。山内祥史『太宰治の年譜』には、
二月十四日夜には、檀一雄に円タクに乗せられ、下谷中坂町四十一番地の浅見淵宅を訪れ、浅草で大酔し、二月十五日夜には、小山祐士と浅草に行き、呑み屋で出会った喜劇俳優清水金一と三、四軒飲みまわる
と書かれています。佐藤には、もっともらしいハガキも書いているのに、あくまでも表向き。やれやれという感じです。
2月20日、太宰は、当初の約束通りに芝済生会病院を退院しますが、檀一雄は著書『小説 太宰治』で、「しかし、太宰のモヒ中毒の方は、もちろんの事なおらなかった。」と書いています。
【了】
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【参考文献】
・中野嘉一『太宰治 ー主治医の記録』(宝文館叢書、1980年)
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
・檀一雄『小説 太宰治』(岩波現代文庫、2000年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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