記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】2月11日

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2月11日の太宰治

  1941年(昭和16年)2月11日。
 太宰治 31歳。

 一夜山岸外史と遊ぶ。

山岸外史(やまぎしがいし)の第一印象

 山岸外史(やまぎしがいし)(1904~1977)は、太宰・檀一雄(だんかずお)と並んで「三馬鹿」と呼ばれた3人のうちの1人。東京生まれで、大倉喜八郎の片腕として日本製靴(現在のリーガルコーポレーション)社長などを歴任した山岸覺太郎(1867~1937)の息子です。

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■湯河原にて。1935年(昭和10年)秋、左より檀一雄、太宰、山岸外史、小舘善四郎。

 山岸は、第七高等学校造士館(鹿児島)を経て、東京帝国大学文学部哲学科で出隆に師事。帝大卒業後は、文筆家を志し、1931年(昭和6年)同人雑誌「アカデモス」を主宰します。1934年(昭和9年)に「散文」を創刊し、創刊号に掲載した『「紋章」と「禽獣」の作家達』で川端康成に認められ、同じく『佐藤春夫論』で佐藤春夫の好遇を得ました。同年、太宰治と意気投合し「青い花」を創刊しますが、一号で廃刊。翌1939年(昭和10年)に旧「青い花」同人と共に「日本浪漫派」に加わり、太宰・檀一雄と交友を結びました。

 山岸が「太宰とぼくとの交友が、なぜあれほど深いものになったのか、今日、考えてみると、不思議に思われるようなところがある。途中に戦争などがはいって、断絶したような期間もあるのだが、考えてみると、十四年間におよんだ交友である。ぼくにとって、これほど追憶の深い友人もない」と語る、太宰との交友。
 今回は、山岸の著書『人間太宰治から、山岸から見た太宰の第一印象、ファーストコンタクトのシーンを引用します。

 ぼくが、太宰治とはじめて会ったのは、たしか昭和九年の初秋であった。ぼくが三十歳で、太宰が二十五歳のときである。
 太宰がまだ東大の仏文科に在学していた時代で、国電荻窪駅からすぐ近くの飛島定城(とびしまていじょう)氏方の二階の二間を借りて、最初の妻君の初代さんといっしょに住んでいた頃である。ぼくは、同人雑誌「青い花」のことで、はじめてその家を訪れたのである。(飛島氏は、太宰同郷の先輩で、東京の日々新聞の記者であった。)
 その日以来、急激に交友が深くなった。一見して旧知のごとし、そんな言葉があるが、一日で深くなったのである。ぼくは太宰に才腕を感じ、また、ほんとに話のできる友人を感じた。
 ぼくはすでに哲学科というところを卒業して五歳年長であったが、太宰がなかなか老成していて、練達している性格をもっていることに感心もしたものである。この男はやる(、、)と思った。言葉のやりとりにもゆき(、、)届いたものがあった。その日のことにもぼくは深い印象をのこしている。
 (中略)
 その太陽が沈みきって、ようやく周囲が夕刻の蒼い色になりはじめた頃、電車は灯のあかるい荻窪駅についた。ぼくは、中村君(筆者注:山岸に太宰を紹介した中村地平)に書いてもらった地図を頼りにして、駅前の黄昏(たそがれ)の青梅街道を横断した。当時は、この道路も道幅がせまくむろん舗装もされていなかったが、殷賑(いんしん)をきわめていた。そこを渡ると、向い側にあったマーケット内の通路を通りぬけてその裏側に出た。
 太宰の家は駅からほんとに近かった。そのマーケットの裏であった。茂った暗い檜葉垣(ひばがき)をまわした古風にみえる二階家であった。その檜葉垣にそって角を左にまわると左側に花崗岩の門柱がほの暗い夕闇のなかにたっていた。
(この家は、二階が八畳と四畳半で、階下は三間あったような記憶がある。その二階二間が太宰夫婦の室になっていた。)
 ぼくは、その門の脇の潜り戸をあけた。奥深くつづいている花崗(みかげ)の踏み石をわたって玄関のガラス格子をあけた。「ご免下さい」そういうと、小柄でちょっと艶っぽい赤い襟の若い女性がすぐ階下の襖からあらわれた。これが、太宰の妻君の初代さんだったのである。すぐ玄関のスイッチの紐をひっぱって板の間をあかるくした。
「太宰君は、おいででしょうか」
 ぼくは静かにいった。あるいは、いくらか豪然としていたかも知れない。
「はい、おりますが、どなたでしょうか」
 その若い女性は、すこし(いぶか)しげな顔つきで、そう答えた。ことによると、ぼくの風態を怪しんでいたのかも知れない。
 ぼくは来意を告げたが、「青い花」という言葉は、初代さんにもその意味がよくわからなかったのにちがいない。一瞬、胡散(うさん)くさそうな表情をした。初代さんは、ちょっとそんな逡巡(しゅんじゅん)をしたあとで、もう一度襖の奥に消えたのである。折柄、その襖の中では、夕食の最中だったらしく何人かの話し声が聞えていたが、それが急に、やむと、太宰が箸をもったまま、すぐ同じ襖からあらわれてきた。(この頃、太宰夫婦は、階下の飛島氏の一家と食事をともにすることにしていたようである。)太宰は着物姿だったが、きちんとした感じではなかった。やはり、髪の手入れなどしない一見してきわめて無造作にみえる男であることが解った。中村君から訊いていた年齢よりも、はるかに老けている第一印象をうけとった。ひどく背が高くみえた。(太宰は一メートル七四センチ以上もあった。)尤も、この家の玄関の板の間は、普通の家の板の間よりかなり高く、大きな自然石の靴ぬぎなどもあったくらいだから、太宰はいっそう長身にみえたのである。楽屋からでてきた講釈師みたいな印象もあった。素人(、、)のような感じはなかった。しかしぼくは、箸をもってでてきたそういう風態の太宰をみて、すこし周章(あわて)者のところもあるのだなと思ったものである。
「ぼくが太宰なんですが」
 箸をもった長身の男は、ぼくをじっとみおろしながら、幅のある(しゃが)れた声でいったが、すぐ自分のもっていた箸に気がついたらしく、「いま食事中だものですから」といった。太宰は、来客のことよりも「青い花」という言葉の方で周章てたのかも知れなかった。今日考えてみると彼も、「青い花」にはかなり大きな期待をもっていたのである。これは彼の書簡集をみるとよくわかる。
 しかしぼくは太宰の立っている位置がばかにたかくて、まるでぼくが見下ろされているように感じた。(ぼくも一メートル七〇センチはあったのだが)これではまずいと、ぼくはそんなことを考えたものである。初対面の挨拶上、これでは甚だ位置がわるいと思った。まさか改めて靴ぬぎの大きな自然石のうえに立つ気もしなかった。
「じつは『青い花』のことできたのですが、ここではまずいと思うのですがね。あがってもいいでしょうか」
 太宰はちょっとためらったようだったが、すぐ、「あがって下さい」と穏やかな声で答えた。ぼくは自分の言い方が異様だとは思ったが、すぐ下駄を靴ぬぎ石にぬいで板の間にあがった。まず、これでよしッと思った。
「ぼくは、山岸外史という男です。日本外史の外史です」
「お名前は知っています」
 太宰が意外にもそういった。ぼくはそれをほんとにはしなかった。なかなか世辞のいい男だと思ったものだが、「それでは、二階で話をすることにしましょう」という太宰のあとに従うことにした。太宰は笑いひとつうかべなかった。これは当然のことだったのにちがいない。(あとになって、太宰が、「あのときは、坂本龍馬でもきたのかと思ったよ」とお世辞らしいことをいった。「嘘をいいなさい。脱獄囚でもきたと思ったのだろう」ぼくが揶揄(やゆ)したことがある。)

  少し長い引用になりましたが、これが太宰と山岸の14年間にも及ぶ交流のはじまりでした。山岸の事細かな描写から、初めて会った時の雰囲気が伝わって来ます。
 この後、太宰が山岸を二階に通すシーンへと繋がっていくのですが、気になる方は、ぜひ山岸外史『人間太宰治を手に取ってみて下さい。山岸と太宰の14年間がギュッと詰まっています。

山岸外史『人間太宰治』(ちくま文庫、1989年)

 【了】

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【参考文献】
・山岸外史『人間太宰治』(ちくま文庫、1989年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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