2月14日の太宰治。
1936年(昭和11年)2月14日。
太宰治 26歳。
檀一雄に円タクに乗せられ、下谷区中坂町四十一番地の
太宰、入院中に檀一雄と病院脱出
太宰は、佐藤春夫からの強い忠告を受け、2月10日から10日間の約束で、パビナール中毒のために芝済生会病院に入院していました。
しかし、10日間の入院生活中、夜に病院を脱け出して、檀一雄・浅見淵と一緒に、浅草で泥酔するまで飲んだりしています。この時のことを、檀一雄は『小説 太宰治』に書いているので、引用して紹介します。
さて、太宰が、佐藤春夫先生のおとりなしで、中毒除去の為に、芝の済生会病院に入院したのはいつのことだったろうか。
先生の御令弟、佐藤秋夫さんが、病院におられて、その手引で入院したものだった。未だ「晩年」は出来上っていなかった。
私は、浅見さんと緑川貢を誘って、見舞いにいった。病室の寝台からムックと起き、太宰はひどく喜んだ。淋しかったのだろう。「いい時、来た。檀君。滅多に人は待たれることないよ。今日は待たれた、俺からねえ。有難いと思えよ」しばらくそんなことを云っていたが、
「いまさき、佐藤春夫御夫妻が、見舞いに来られたとこだ」
そう云って、嬉しげに、布団の下から、奉書紙の包みを取り出した。
御見舞 春夫
と、書かれてあった。
太宰は、私達に開けて見せた。参拾円のようだった。
その日のウヰスキーは、私達が持ち込んだものだったか、太宰が買ったものだったか、もう一向に忘れてしまった。いや、あとからの一本は、たしか、緑川に使いにいってもらって、その参拾円から買ったものだったような記憶がある。
私達は見舞いにいって、ウヰスキーをあおったわけだった。ここのところは、温厚な浅見さんが一役を買っているから、私ははなはだ気が楽だった。
夕暮だった。その明暗の静かな推移を量りながら、私達は酔っていった。
暮れていた。
「出かけようか?」
と、太宰、
「ああ」
と私は即答した。
「いいかね? 太宰君。大丈夫かね?」
浅見さんの逡巡の表情が今でも眼に浮ぶ。しかし、浅見さんも強いて反対はしなかった。
「いいんだ、いいんだ」
と、太宰は和服を着用しはじめた。慣れたふうでベッドの下の下駄を手に抱えて、太宰が先に立ち、全部、見舞客のふうで、ぞろぞろと出ていった。
車に乗った。それから何処で飲んだかは、覚えていない。大酔していた。
また、車を呼び止めて、その自動車の中で、まだ残っている、二本目のウヰスキーの瓶を、太宰の眼の前で私がゴボゴボとゆすってみせた事をはっきりと覚えている。
月の出だった。
車は大川を渡るのである。
「大川だ、来たぞ、太宰。万歳。」
と、私は大声に喚き立てた。月の墨田川が、漫々と堪えていた。狂乱していた。例の通り玉の井だった。私は太宰の方をしかり抱えながら、「抜けられます」の通りの中をよろけていった。
妓楼 に上っていった。
また飲んだのか、それとも泊ったのか、そのところは記憶がない。しかし、この晩はやっぱり太宰を病院に送り返したような、気持ばかりする。
「晩年」は、太宰の希望通りに出来上った。しかし、太宰のモヒ中毒の方は、もちろんの事なおらなかった。
パビナール中毒療養のために入院したのに、やれやれ…です。
【了】
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【参考文献】
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・檀一雄『小説 太宰治』(岩波現代文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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