記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】2月21日

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2月21日の太宰治

  1947年(昭和22年)2月21日。
 太宰治 37歳。

 「原稿用紙と聖書と辞林」その他を入れたリュックサックを背負って自宅を出発。伊豆へ行く途中、母が逝去して一人暮しをしていた太田静子を、神奈川県足柄下郡下曽我村原の大雄山荘に訪ねた。この訪問は、静子の日記を借り受けることが主目的であった、という。「日記に書かれてある内容のおおよそのところは既に静子から聞かされてはいたようだが、現物を手にしたのは」この時が初めてであったといわれている。五日間、大雄山荘に滞在。

太宰、太田静子の日記を手にする

 一月(日付不詳)
  東京都下三鷹下連雀一一三より
  神奈川県足柄下郡下曽我村原 大雄山
   太田静子宛

 同じ思いでおります。
 二月の二十日頃に、そちらへお伺いいたします。そちらでニ、三日あそんで、それから伊豆長岡温泉へ行き、二、三週間滞在して、あなたの日記からヒントを得た長篇を書きはじめるつもりでおります。
 最も(かな)しい記念の小説を書くつもりです。

  こんなハガキを送った後、太宰は太田静子の住む大雄山荘へ向かいます。

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■太田静子と治子 1948年(昭和23年)春。治子は前年11月誕生。

 山内祥史太宰治の年譜』には、「この訪問は、静子の日記を借り受けることが主目的であった」と書かれています。今回の訪問は、1月6日の記事で書いた、太宰が静子に、「日記が欲しい」と話したことを受けてのことでした。

 この時の訪問の様子を、静子の『あはれわが歌』から引用して紹介します。ちなみに、「園子」の名前で登場するのが静子です。

 二十日の午後、
『二一ヒゴ ゴ 三ジ 五〇オダ ワラエキ』
 という電報を受けとった。
 二十日は朝早く起きて、家の中を大掃除して、家のまわりも美しく掃いて、お昼を済ませると直ぐ小田原へ出かけた。
 駅の建物にもたれて、ふと(かお)をあげると、ギャバジンのオウヴァを着て、中折帽を被った治が笑っていた。うれしそうに笑っていた。
 駅前の喫茶店へ行って座ると直ぐ、
「園子の顔を見た時、ベエゼしたくなって困った」と言った。それからリュックの中から、紙につつんだ瓶を出して、
「汽車の中でわれなかったかしら」とゆすってみていた。
ウイスキイなんだよ」
「いま、お飲みになるの?」
下曽我へ行ってからだ。これはサントリイだから、いまこんなところで、ひとに見付けられら、たいへんなんだよ」
 それから彼は、紙につつんだ小さい包みを全部出して、テーブルの上に置いた。
「白いパンとチーズとバターと肉の缶詰と粉ミルク……これだけ持って来たんだけど」
 みんな田舎ではとても手にいらないものばかりだった。今度は高級煙草を出して封を切り、園子にも一本渡したが二人とも吸わないで店を出た。駅には学校帰りの生徒がいっぱいいて、混んでいた。

  太宰が園子(静子)に言った「ベエゼしたくなって困った」は、フランス語で、「キスしたくなって困った」という意味です。テーブルの上に並べた、当時では貴重な品々でした。新宿か吉祥寺の闇市で手に入れたものだったのでしょうか。

 汽車も混んでいて、中にはいれないので、二人はデッキに立っていた。小田原の街を出て、酒匂川の鉄橋にかかると、治は眉をしかめて鉄橋を見ていたが、鉄橋を通り過ぎると、
 「織田の『土曜婦人』にデッキから人を突きとばすところがあったろう」と言った。園子もその場面はよくおぼえていた。園子は治の蒼い顔が気になった。
「織田はひどい肺病だったんだよ。真蒼(まっさお)な顔をしていたよ。

 この年の1月10日に急死した、織田作之助。読売新聞に連載中だった『土曜夫人』を、35歳の織田は、死の1ヶ月前まで、大量の喀血を繰り返しながら書き続けていたそうですが、静子は、この『土曜夫人』を愛読していました。
 織田の死亡が新聞に掲載された時、静子2歳年下の弟・武は、食堂の椅子に腰かけて新聞を拡げていました。東芝の会社員だった武は、九州の連隊から復員してきて間もなく、平塚の工場勤務となり、週の何日かは、下曽我の姉・静子の許に泊るようになっていたそうです。
織田作之助の追悼文を、太宰さんが東京新聞に書いているよ」
 静子が太宰に傾倒していることを知っていた武は、そう言いながら静子にその新聞を手渡しました。ここに書かれていたのは、太宰が書いた追悼文『織田君の死』が掲載された「東京新聞」でした。

 国府津(こうづ)のプラットフォームで御殿場線を待っているうちに黄昏になった。二人は一番端のベンチに座っていたので、海がすぐ眼の前にあった。
尾崎一雄という小説家を知っている?」
「ええ」
「尾崎さんに逢ったことがあるの?」
「いいえ」
「奥さんを知っているの?」
「ええ」
「近くなの?」
「一丁半くらいかしら?」
「あの奥さんと、仲よしのなの? お米の配給所なんかで一緒になるの?」
「戦争中、山の勤労奉仕で一緒になってお話したことがあるの」
「どんなお話したの?」
「お昼休みの時にね、みんなに聴えるような大きい声で一所懸命御主人の自慢話をしていらっしゃる方があったの。ずいぶん偉い方らしいので、傍へ行って聴いていたの。船でシンガポールへ行って、上等のお酒を飲んだり、とても頭を使う仕事をして、そのために病気になって(やす)んでいらっしゃるというので、この方の旦那さまは海軍の少将か中将か、もしかしたら理学博士かも知れないと考えながら聴いているうちに、尾崎さんというお名前だと分ったので、もしかしたら、尾崎一雄さんの奥さまかしらと思って、『暢気眼鏡』の尾崎さんの奥さまですか?と尋ねたの。そうしたら、やっぱりそうだったの」
「園子は『暢気眼鏡』をどう思った?」
「まだ読んでいないの。私ね、尾崎さんの小説は一つも読んでいないの」
「これから少し、尾崎さんや井伏さんのものを読んでごらん。たしかに、ためになると思うんだ。それからあの奥さんと友だちになって、あの奥さんを見ならうといいよ。あの奥さんはいい奥さんなんだ。あの奥さんとどんなお話をしたの?」
「奥さまがね、園子のことをお尋ねになったの。……ひとり女の児がいたのですけれど、病気で死にましたので母のところへもどって、いま母とふたりきりで暮していますって、答えたら、どなたか好い方がいらっしゃらないかしら、と仰ったので、それで園子は、夫はノモンハンで戦死いたしましたの、って嘘を言ったの。奥さまはまだ、おぼえていらっしゃるかしら?」
「おぼえているかも知れないよ」
「もしも下曽我の駅で尾崎さんにお逢いしたら?」
「恋愛です、そう言えばいいんだ。それでいいんだ。園子は少し離れて、だまって、笑っていなさい。ノモンハンのことは、何もあやまらなくてもいいんだよ」
 あたりがだんだん暗くなって来て、海の色が濃く青くなって来た。園子は海の直ぐ上のベンチに掛けているような気がした。が微かに光りはじめた。
「僕はね、ずっと前、これとそっくり同じ景色を夢に見たんだ。海も松も、あの家も、このベンチもね、みんな同じなんだ。そっくり同じなんだ。ほんとうに同じなんだ。ただね、雪が降っていた。それから、そうだ、園子は白い服を着て、その上に白いオウヴァを着て帽子を被って、長沓をはいていた。もう一人園子によく似た女の児がいたんだけど、その児もそっくり同じ服装をしていたよ。雪が一めん積っていて、それでいて少しも寒くないんだ。僕はその夢でもウイスキイを持っていてね、青い闇に透かして見ていたんだ。園子はこんなことがない? 一度夢で見た風景を、三年程後に現実で見るという、こんな経験がない? 僕はときどきあるんだよ」
「園子にもあってよ。もうずっと前、」と言って園子は口をつぐんだ。それは三條篤の出てくる近江の永源寺の風景だった。園子が急に口ごもったことも治はべつに気にならないようだった。
「僕はこのプラットフォームが好きなんだ」と治は自分に言いきかすように言った。そうして次第に純麗な輝きを増して来た青味を帯びた星をさして、
「あの星にね、似たものをね、持って来たんだけど、わかる?」と尋ねた。青か黄のサファイヤをはめこんだ銀のロケットかしら、それとも首飾りかしら、と園子は考えた。
「あの星より、もう少し、白くて、かなしいもの……」と治はまた笑いながら言った。御殿場線のプラットフォームに汽車がはいって来た。沿線の梅が、夕靄(ゆうもや)の中にほの白く浮んで咲いているのを、治は汽車の窓から夢見るような表情で眺めていた。
 下曽我の駅へ下りると、もうすっかり夜になっていた。駅前の通りを左に折れると、川の傍に梅林がある。治は立ちどまり、微笑して、
「園子の匂はね、梅なんだよ。それから牛乳の匂い」
 鳥居の前を過ぎて、墓地の下まで来ると治は背伸びして墓地を見あげ、
「此処に立っていた十字架は?」と尋ねた。
 治は上にあがると、オウヴァを着たまま、園子を抱きしめた。

 炉端に向き合って座ると、治は紺の上衣のポケットから、銀灰色の革の小管を出して、
「これが、星に、似たもの」と言って微笑した。ひらいて見ると、真珠だった。大粒の真珠だった。
「『病める貝殻にのみ真珠は宿る』レールモントフの詩の、この一節を僕に贈って呉れた友人があるんだ。」
 それからウイスキイをグラスに充して、右手に持って乾杯した。治はお土産の白いパンやチーズや缶詰を炉端にひろげた。園子がパンを切るのを、治は手をかした。
 天井の灯りを消して、隣りの中国間のスタンドだけにして、食事をした。治は紺の背広の膝をそろえて、炉端に斜めに座っていた。炉の火が治の(かお)を、下から照らしていた。
 「イエスとマリヤのお食事のようね」と園子が言うと、
 「僕の最も(かな)しい晩餐だ」と言って、治は微笑した。ウイスキイのグラスを下に置きリュックから「聖書」を出して来て、ルカ伝の第十一章の終りを読んだ。
『かくて彼等進みゆく間に、イエス或村に入り給えば、マルタと名づくる女おのが家に迎え入る。その姉妹にマリヤという者ありて、イエスの足下に座し、御言を聴きおりしが、マルタ饗応のこと多くして心いりみだれ、御許に進みよりて言う「主よ、わが姉妹われを一人のこして仂かするを、何とも思い給わぬか、彼に命じて我れを助けしめ給え」主答えて言い給う「マルタよ、マルタよ、汝さまざまの事により、思い煩いて心労す。されど無くてはならぬものは多からず。唯一つのみ、マリヤは善きかたを選びたり。此は彼より奪うべからざるものなり」』
それから、同じルカ伝第二章の、
『マリヤは凡て此等のことを心に留めて思い回せり』という一節を読んで、
「聖母マリヤの、この一節を忘れてはいけないよ」と言った。それからは、だまって、唯にこにこ笑いながら、園子の(かお)ばかり見つめて、ウイスキイを飲んでいた。
「日記は、どこにあるの?」しばらくして、治が尋ねた。
「二階に、……」と答えて、それから少し改まった声で、
「園子の、いままでの生活、ほんとうに泥沼のような生活だったのね。だから、園子の日記は」
「いいんだよ。」と言うなり、彼は園子を抱きしめ優しく唇づけて、離し、
「じゃあ、僕、先にあがって待っている」
 リュックを持って、ひとりで二階へあがって行った。

 後片付けをして、フランネルの寝衣に着更えた彼女は、炉端にうずくまって、しばらくぼんやりしていた。それから指の真珠を見ていると、
「園子、園子」と治が呼んでいるような気がした。園子は立って、父と母の写真の前へ行き、いつものように、
「おやすみなさい」とそう言って、それから燭台をとって、灯をともし、足音をしのばせて二階へあがって行った。蝋燭の灯りで周りを照らしながら……

【了】

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【参考文献】
・太田静子『あはれわが歌』(ジープ社、1950年)
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
太田治子『明るい方へ 父・太宰治と母・太田静子』(朝日文庫、2012年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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