記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】2月23日

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2月23日の太宰治

  1942年(昭和17年)2月23日。
 太宰治 32歳。

 二月末、「正義と微笑」が百八十枚に達した頃、堤重久を甲府に招いてともに遊び、三月一日夜遅く帰京。

堤重久、甲府の太宰を訪問

 二月九日付はがき
  甲府市湯村温泉 明治屋方より
  東京市日本橋区本町三ノ九 博文館出版部文芸課
   石光葆

(電話、湯村 四一〇六)
 仕事をするために、表記にまいって居ります。寒い、淋しい山宿です。一箇月ほど滞在の決心です。校正が、その間に出来ましたら、こちらへ、お送りになっても、ようございます。まずはご報告まで。    不一。

  これは、博文館出版部文芸課の石光葆宛のハガキです。作品集「女性」(『十二月八日』『女生徒』『葉桜と魔笛』『きりぎりす』『燈籠』『誰も知らぬ』『皮膚と心』『』『待つ』)の校正中に出されたもので、太宰は『正義と微笑』を執筆するために、甲府「旅館 明治」に滞在していました。

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 太宰が、はじめて湯村温泉を訪れたのは、1939年(昭和14年)6月。妻・美知子との結婚の翌年早々、甲府に新居を構えてから、9月に東京へ移るまでの間でした。当時、湯村温泉は、いくつかの源泉をはさんで、10軒ほどの旅館が建てられていたそうです。
 太宰の小説『美少女』にも、湯村温泉は登場します。

甲府市のすぐ近くに、湯村という温泉部落があって、そこのお湯が皮膚病に特効を有する由を聞いたので、家内をして毎日、通わせることにした。

湯村のその大衆浴場の前庭には、かなり大きい石榴(ざくろ)の木が在り。かっと赤い花が、満開であった。甲府には石榴の樹が非常に多い。
 浴場は、つい最近新築されたものらしく、よごれが無く、純白のタイルが張られて明るく、日光が充満していて、清楚の感じである。湯槽(ゆぶね)は割に小さく、三坪くらいのものである。

 ここに出て来るのが、「旅館 明治」です。

 甲府に住んでいた時は、数回しか訪れていなかったようですが、東京へ引っ越してからは、度々湯村を訪れ、1942年(昭和17年)2月(『正義と微笑』執筆のため)と、1943年(昭和18年)3月(『右大臣実朝』執筆のため)には、執筆のために滞在しています。

 今回紹介するのは、『正義と微笑』を執筆するために訪れた、最初の滞在していた時のエピソード。太宰に招かれて甲府を訪れたのは、太宰の一番弟子・堤重久(つつみしげひさ)です。

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 堤重久の著書太宰治との七年間』から引用して紹介します。

私は、気楽な一人旅を楽しみながら、最初は女のことを考えていたが、汽車が、大月、塩山と過ぎて、甲府に近づくにつれて、太宰さんの比重が大きくなってきた。まだ、わずか一年半余りなのに、私の魂に喰いこんでしまった、太宰さんとの交遊のあれこれが頭に浮んだ。殊にも、ユーモラスな言動が鮮かに蘇ってきて、私は、ひとりで、わらいを押さえるのに苦労した。
 甲府に着いた。まだ動いている車窓から、改札口の向側に突立って、漠然とこちらを眺めている、のっぽの太宰さんが見えた。カーキ色の国民服が、幅を利かせてきた時節であったが、太宰さんはまだ、下駄履きの和服姿であった。
「なんだ、蝙蝠(こうもり)なんかもってきたのか。旅下手な奴だなあ」
 私が下げている雨傘を見るや否や、太宰さんが軽蔑したようにいった。これが、私を迎えた、太宰さんの第一声であった。
 シルクハットを(さか)さまにして、その帽子の底に、小さい小さい旗を立てたようなと太宰さんが形容した、甲府の街を歩きだしながら、
「どうだね、勤めの方は?」
「まあ、いってますけど――。このあいだ、大きな本が廻ってきましてね、ドイツ語にしては、妙な表題だなあ、と思って眺めていたら、オランダ語の本でしたよ」
 太宰さんは、わらって、
「なんだ、オランダ語とドイツ語を間違えたのか」
「いえ、間違ったわけじゃあないんですけど――」
「やっぱり、間違えたんだよ、それは――」
 間違えたことにされてしまって、これはあとのことだが、堤は、独文を出たくせに、ドイツ語とオランダ語の区別さえつかないと、みんなに言い触らしたらしい。
 先ず、奥さまの実家に伺うことになって、市電に乗った。市電は、気の毒なくらいに空いていた。
「『正義と微笑』順調のようですね」
「うん、なんていうのかなあ、すらすら、すらすらかけるんだね。そろそろ、おれも、脂ののる年頃になった感じだね」
 廻ってきた車掌から、不器用な手つきで小銭を出して、切符を買って、
「三十五歳前後に、いい仕事をするもんなんだよ。井伏さんもそうだったし、山岸も、人間キリスト記をかいたからね。まだ、数年あるけど、おれも、それに近いからね」
  (中略)
 水門町の、奥さまの里の石原家は、大きな構えの立派なお宅だった。お母さまが出てこられて、庭に面した広い座敷で、茶菓のもてなしを受けた。色の白い、恰幅のいい、昔の女子大出にふさわしく、聡明そうな眼つきのお方であったが、太宰さんには、いささか苦手らしかった。へりくだった態度で、珍らしく伏眼がちになって、両手をしぼるように握り合わせたり、上半身をくねくねさせたりしながら、園子さんのことなどを話していた。そうして、なにかいい終るたびに、私の方を見るので、そのたびに私は、頷いたり、相槌を打ったりしなければならなかった。それでもお母さまの方は、そうした太宰さんを包みこむような柔かい表情で、終始にこやかに応対されていた。
 一時間ほどで、石原家を辞去して、歩いて近所の酒場に入った。次いで、お酒が浸透すると、太宰さんは、(にわ)かに元気づいてきた感じで、
「おい、おい、あの隅の、こっちに背中をむけて飲んでいる男、首筋が太いだろ。あんな風にだな、首筋の太い男は、あっちの方、強いもんなんだよ」
「じゃあ、先生はダメですね」
「お前だって、ダメだ」
 カフェーの廃墟のような、田舎芝居の楽屋裏に、椅子とテーブルを並べたような、惨憺(さんたん)たる感じの店であった。
「政界で、だれが一番、あそこが大きいか知っているかね」
 石原家でかしこまっていたための反動か、いよいよ話が下卑てきた。
「いいえ」
「じゃあ、教えてやろう。一にK、二にM、三なし、四なし、五に馬、っていうんだ。三がなくて、四がなくて、五に馬っていうんだから、すごいじゃあないの。赤坂の名妓の、ほら、知ってるだろ、あの美女がだね、Kの妾に推挙されたんだが、悪戦苦闘の末に、平身低頭して、一週間でお(ひま)を頂戴したそうだ」
 さらに、調子づいて、
「文壇じゃあ、舟橋聖一、というのが定説だね。大きいのか、小さいのか、知らんがね、テクニックにかけては、抜群だそうだ。なにしろ、毎回女が、気絶しちゃうっていうんだからね。やりながら、新聞よんでる女がいるそうだが、そんなどころじゃあないわけだね」
 さらに、盃を重ねて、
「われわれの仲間じゃあ、先ず山岸だね。ずいぶん一緒に遊びにいったけど、山岸が現われると、女たちが泣顔になるんだ。評論界のK現わるというわけでね。山岸もこりて、此頃じゃあ、ワゼリンを缶入りで持って歩いているよ」
 その他、更に下廻った話で終始して、その店を出た。思いきり、下降したおかげで、心の(おり)がとれたのか、太宰さんは、平衡感覚を取戻したような、明るく澄んだ表情に変っていた。
 今度はバスに乗って、湯村の旅館にいった。十二、三日前から、太宰さんが仕事をしている宿屋で、湧湯(わきゆ)があるとのことだった。
 二階の、太宰さんが借りている、正面の座敷に入って座ると、手摺(てすり)越しに、甲斐の山波が見えた。遠い山は薄蒼く、近い山は濃淡の緑を見せて、三方を取囲んでいた。太宰さんが、帳場の方に降りていったので、それらの山を眺めたり、例の。オレンジ色の(けい)の原稿用紙が積上げてある低いテーブルを振返ったりしながら、私は内心、なんだか変な感じだった。甲府駅で、太宰さんと会った直後から、変に思っていたのだが、太宰さんは、なぜ私に、女のことをきかないのだろう。手紙では、あんなに強く関心を寄せていたのに――。わざと避けているとしたら、なんのために避けるのだろう。何事も、遠慮会釈なく切込んでくる人なのに――。そんなことをぼんやり考えていると、階段を上ってきた太宰さんが、宿屋の褞袍(どてら)に着替えながら、不意にいった。
「お前の恋愛相手とは、何者だね。新宿のおでんやの娘かね?」
 考えていただけに、どきんとしたが、努めてさりげなく微笑して、
「ほら、三鷹の、このあいだ先生と一緒に寄ったでしょ、あのバーの女ですよ」
「え? 三鷹の?」
 太宰さんは、帯をしめかけて突立ったまま、ほんとにおどろいた顔をしたが、それがたちまち、暗い、厳しい表情になって、
「ありゃあ、お前、いかんよ。あんな女は、いかんよ。ばかばかしい。あんな女と、お前が――」
 いきなり、こんな風に、反対されようとは予期していなかったので、私は、一時に血の引く思いを押さえて、
「バーの女だから、いけないとおっしゃるんですか?」
「そうだよ。バーの女だから、いけないというんだ。それに、お前、あの女は、お前より歳上なんだよ」
 太宰さんは、少し落ちついてきた感じで、テーブルの脇にあぐらをかいて、煙草に火をつけた。表情は、まだかなり暗かった。
「もう、寝たのか」
「ええ」
「何度くらい?」
「ニ、三回――。三回ほど――」
「まさか、結婚の約束はしてないんだろうね」
「それが、しちまったんです」
「チェッ、呆れたね。お話にならんよ、お前のばかさかげんは――」
 この言葉には、さすがの私も、むッとした。
「だって、先生、新宿のおでんやで、ぼくがちょっと好きだといったら、仲立ちしちゃるとおっしゃったじゃあないですか」
「あれは、冗談というもんだ。あんな店の女と結婚するなんて、誰が賛成するものかね」
 太宰さんは、大分機嫌を直してきて、その梅干のようなものを食べて、一緒に飲むとおいしいといって、私に茶をすすめてから、少しわらった眼つきで私を睨んで、
「おれには、責任があるんだよ。お前の結婚相手はね、両親の揃った、普通の家の娘でなくてはいけないんだ。同じような環境の娘でないとまずいんだよ」
「ずいぶん、古風なことをおっしゃいますね」
「結婚は、古風でいいんだよ。はれた、ほれたで、一緒になるもんじゃあないんだ。だって、そうだろ。変に色気のある女に、傍でちらちらされて見ろ。朝っぱからから刺戟(しげき)されて、ロクロク仕事も出来んじゃあないか。おれのとこなんぞ、ベッドも別だし、たまにしかやらんし、清潔なもんさ。もっとも、結婚にあたっては、ある程度の興奮は必要だがね。興奮がまるでなかったら、結婚はやめにするんだな。それは、たしかなことだがねえ」
 最後に一言、切り捨てるようにいった。
「ま、三鷹の女は、遊べるだけ遊んで、捨てちまうんだね」
 しばらく、ショックを受けて、しょげこんでしまった私の、気分を変えようとするつもりか、風呂へ案内しよう、なにが入っているのか知らないが、とにかくからだに効くそうだ、といった。
 前後して階段を降りたが、風呂は一階ではなく、そこからまた下った地下にしつらえてあった。しかも、その地下がなかなかに深く、おそるおそる、急傾斜の梯子のような階段を降りてゆくと、足下の薄暗の底から、木の枠に囲まれて、茶っぽいお湯を湛えた湯舟が、裸電燈にぼんやり照らしだされて、見えてきた。
「なんだか、恐いですね」
「うん、用心しないと――。ほら、そこをしっかり握って――」
「ダンテの地獄篇みたいですね」
「そりゃあ、大袈裟だなあ」
 やっと地底に到着して、這いつくばって、徐々に腰の方から、ずらせてどうやら湯舟におさまると、太宰さんは大袈裟だといったけれど、ほんとうに太宰さんと一緒に、地獄の底に落ちこんでしまったような感じがした。
「温泉は、やっぱりちがいますね。気持がいいですね」そんあお世辞をいって、手拭で首筋を洗っていると、太宰さんが、お湯に浮んだ顔を近づけてきて、
「見れば見るほど、お前の顔は、色魔の顔だねえ」
 ぎょッとして、私は、手拭の動きをとめて、
「そんなことないですよ、色魔だなんて――」
「いや、そうだよ。お前がはじめて、おれの家にやってきたときにさ、キザなお辞儀をして、それから顔をあげた瞬間、見つけたぞ、色魔の顔だ、そう直感したもんだが、おれの眼に狂いはなかったようだ」
「いやなことをいいますねえ――。色魔にしては、女にもてませんよ」
「いや、もてる男と、色魔は別物なんだ。色魔は、これと狙った女は、絶対にものにしちまうんだが、もてる男の方は、これは、めったやたらに女に親切なんだね。女は、親切に弱いからね。それだけなんだ。ドン・ファンがそうだよ。ゲーテなんかも、そうかも知れんな」
「じゃあ、山岸さんは、ドン・ファンなんですか」
「うん、まあ、一種のドン・ファンなんだろうけど、さて、実行となると、困難なんだね。なにせ、ワゼリンだからね」

 だいぶ長い引用になってしまいましたが、太宰の知らない一面を垣間見た方も多かったのではないでしょうか。
 堤の記録は、この翌日、翌々日も続きます。この先が気になる方は、ぜひ、堤重久太宰治との七年間』を手に取ってみて下さい。
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 【了】

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【参考文献】

・堤重久『太宰治との七年間』(筑摩書房、1969年)
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「旅館 明治」(https://www.ryokanmeiji.com/
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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