記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】1月6日

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1月6日の太宰治

  1947年(昭和22年)1月6日。
 太宰治 37歳。

 木枯の強く吹くなか、太田静子が三鷹郵便局近くの仕事部屋を訪れた。吉祥寺の「コスモス」の奥座敷に案内して、太田静子に勧めて書き続けさせていた日記を見たいと伝えた。

太宰と日記

 太宰は、他人の日記を素材に、登場人物の性格や行動、心理を思うままに作り直し、独自の作品として換骨奪胎(かんこつだったい)するのが得意でした。
 『女生徒』は、太宰作品の愛読者だった有明(ありあけしづ)(1919-1981)が19歳の時に書いた4月30日から8月8日までの日記から。『正義と微笑』は、太宰の弟子・堤重久つつみしげひさの弟で、当時前進座の俳優だった堤康久つつみやすひさ(1922-)の日記から。『パンドラの匣』は、結核のため入退院を繰り返し、病気を苦に22歳で服毒自殺をした木村庄助(1921-1943)が書いた、孔舎衙くさか健康道場入院中の日誌から書かれています。 そして、太宰の名を一躍有名にし、彼の作品の中でも1、2の知名度を誇る『斜陽』も、太田静子の日記を基に書かれた作品でした。

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 太田静子(おおたしずこ)(1913-1982)は、1941年(昭和16年)の春、弟の太田通(おおたとおる)に勧められて太宰作品を読み始め、特に『道化の華』に感銘を受けます。
 静子は、1939年(昭和14年)11月15日に長女・満里子を出産するも、満里子は翌月に死亡。翌年には協議離婚しています。満里子の死は自分の責任だと思い込んでいた静子は、「僕はこの手もて、園を水にしずめた。」の一行に釘付けにされました。自分と同じ罪の意識を持った作家がここにいる、という強い想いに突き動かされて手紙を書き、1941年(昭和16年)9月、二人の年下の文学少女の仲間と一緒に三鷹の太宰の家を訪問。ここから、太宰と静子の関係がはじまります。静子の娘・太田治子は、著書『明るい方へ』の中で、

 恐らく彼女に出合う前から太宰は、その手紙の文面に特別な気配を感じ取っていたのかもしれなかった。つまり、この女性からは創作のヒントを得られるかもしれないというインスピレーションがひらめいたと考えられるのである。実際に会って、ますますその思いを深くしたのに違いなかった。

と記しています。
 そして、静子と会う中で、彼女の「文章のセンス」を確信した太宰は、「いずれ自分の書く小説の材料になるかもしれない」と考え、静子に日記を書くように勧めます。
 この時点で、静子は太宰の思惑には気付いていませんでしたが、太宰がはじめて静子に自分の胸の内を告げたのが、今日この日、という訳です。
 少し長い引用になりますが、太田静子『あはれわが歌』から、この日の出来事について書かれている部分を紹介します。

 公園を通って、吉祥寺の町へ出て、駅前を右に折れて少し行くと、ロオズ文庫と書いた汚い家があった。治は入口の戸を叩いて、
「マダム、マダム」と呼んだ。園子はこの家がどういう家なのか、見当がつかなかった。
「マダム、マダム」
「はい」奥の方で声がして、四十五、六の太った、ダリヤのような(ひと)が出て来た。
「あら」小さく叫んで、笑いかけた。
「園子さん?」
「うん」
 治の後から、炬燵をした奥の部間へはいって、マダムと向き合って坐った。マダムはコップにお酒をついで、だまって治の前に置いた。
「美紀が、ゆうべから頭が痛いと言って臥ているんだ」
「奥さんは、園子さんが今日こちらへいらっしゃることを、ご存じだったのね」
「いや、美紀は知らないよ」
「いいえ、知っていらっしゃいますよ。だって、名前をほんの少し変えただけで、住所も筆跡も同じですもの。それに、昨日電報がまいったでしょう?」
 治は、だまって、お酒を飲んでいた。
「園子も此処で働くか」と笑いながら言った。
「私は無理だと思うけど、でも、こちらは何時でも来ていただいてよ」とマダムは園子を眺めた。園子も、ふと、そんな気になって、此処へ住み込む自分を想像してみた。
「いや、駄目だ。園子は駄目だよ。他のお客のことは何もしないから。……園子は僕のことだけしかしないんだ。他のお客が怒ってしまうよ」
 そして治は急にだまり込んだ。しばらくマダムの顔を見て、
「マダム、向うへ行って呉れないか。このひとに、大事な話があるんだ」
「駄目ですよ、園子さんをからかっちゃ駄目ですよ」
「じゃあ向うへ行こう。さあ、おいで」
 治は立って、園子の手をとった。園子が立ちあがろうとすると、
「お嬢さん。いらしてはいけません。わるいことは申しません。先生は心のすれた方なのですよ。通りすがりに、ちょっと、綺麗な花をお摘みになるだけなのですよ。摘んでしまうと、すぐ投げ出しておしまいになります。そしてまた新しい花をお摘みになります。先生がお嬢さんと結婚でもなさると思っていらっしゃるの? お嬢さん、もう、こんなところへいらしてはいけません……」
 治はマダムの顔を立ったまま見ていたが、
「行こう」と園子の手をとった。火の気のない、冷え切った、小さい部屋へ連れてゆくと、襖を切めて、畳の上にきちんと坐った。磨ガラスの戸をガタガタ云わせて、外には寒い木枯が吹いていた。治はだまって、俯向いていた。園子は自分の方から何か言い出さなければならないような気持に駈られ、
「世界の進歩のために、ギロチン台へおたちになる時は、園子もついてゆく……」と言った。
 治はうれしそうに微笑して、園子に近づき、両掌を握りしめ、
「園子の日記が欲しい」と言った。ああ、このひとが言いたかったのは、これだけのことだったのだ、このひとが欲しかったのは、日記だけだったのだ、園子は自分のあわれさを身に沁みて感じた。
「わかった?」
「今度の没落家族の小説に、どうしても園子の日記がいりようなんだ。津軽の家を舞台にして、主人公を僕に、そうしてその愛人を園子にするつもりなんだ。だいたいの筋は出来ている。最後は死、」治は急にだまってしまった。園子は死という言葉を聴いたけれど、何も尋ねなかった。
「小説が出来上がったら、一万円あげるよ」
 園子は一万円もらえたら、どんなにいいだろうと思った。
「じゃあ、これで話は済んだ」
 治は悲しげに微笑した。

 【了】

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【参考文献】
・太田静子『あはれわが歌』(ジープ社、1950年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
太田治子『明るい方へ 父・太宰治と母・太田静子』(朝日文庫、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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