3月2日の太宰治。
1939年(昭和14年)3月2日。
太宰治 29歳。
三月二日付発行の「国民新聞」に「短篇小説コンクール(17)」として「黄金風景(上)」を、三月三日付発行の同紙に同じく「(17)」として「黄金風景(下)」を発表。
結婚後、最初の仕事
この年、1939年(昭和14年)1月8日、師匠・井伏鱒二の媒酌で、太宰は石原美知子と結婚しました。太宰は、1月10日付の井伏宛書簡で「私もきっといい作家になります。お名をはずかしめないよう、高い精進いたします。」と想いを綴っています。
そして、新婚後の新居で、太宰が最初に着手したのが『黄金風景』でした。
この年の正月、「国民新聞」が、新聞の長篇連載の向こうを張った形として、短篇小説コンクール(一篇8枚)を催しました。参加作家は、新聞社の指定で30人が選ばれました。年輩作家も2、3人混じっていましたが、多くが30代の若手少壮作家でした。各作家には、原稿料のほかに、掲載期間の新聞代が贈られ、優秀作一篇には、100円の賞金が出るというものでした。
100円の賞金は、現在の貨幣価値に換算すると、およそ120,000円~147,000円。新婚の太宰にとっては、賞金も魅力的だったのかもしれません。
応募作品は、1月21日以降、「学芸」欄に4枚ずつ2日に分載。60日間にわたって連載されました。4月20日に審査が決定し、太宰の『黄金風景』と
美知子の『回想の太宰治』には、『黄金風景』制作時の様子が書かれているので、引用して紹介します。
この家での最初の仕事は「黄金風景」で、太宰は待ちかまえていたように私に口述筆記をさせた。副題の「海の岸辺に緑なす
樫 の木、その樫の木に黄金の細き鎖のむすばれて」を書かせて、どうだ、いいだろう、と言った。次が「続富嶽百景」で「ことさらに月見草を選んだわけは、富士には月見草がよく似合うと、――」から始まったが、私は前半を全く読んでいなかったので筆記しながら唐突な感じがした。
なんと、太宰は自分で書いた訳ではありませんでした。
太宰の作品には、口述筆記されたものも多く、美知子が筆記した『黄金風景』や『続富嶽百景』(『富嶽百景』の後半部分)、『兄たち』、『駈込み訴え』、『
美知子は『回想の太宰治』の中で、『駈込み訴え』の口述筆記の様子について、
「駈込み訴え」の筆記をしたときが一番記憶に強く残っている。「中央公論」に発表されるということで太宰も私もとくに緊張したのであろう。昭和十五年の十月か十一月だったか、太宰は炬燵に当たって、盃をふくみながら全文、蚕が糸を吐くように口述し、淀みもなく、言い直しもなかった。ふだんと打って変わったきびしい彼の表情に威圧されて、私はただ機械的にペンを動かすだけだった。
と書いています。
新婚後、「待ちかまえていたように」美知子に口述筆記をさせたという太宰。
山梨県立都留高等女学校(現在の、山梨県立都留高等学校の前進の一つ)で、地理と歴史の先生をしていた美知子の存在は、太宰にとって心強いものだったでしょう。
【了】
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【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「日本円貨幣価値計算機」
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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