記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】3月5日

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3月5日の太宰治

  1937年(昭和12年)3月5日。
 太宰治 27歳。

 三月上旬。小舘善四郎(こだてぜんしろう)が、帝国美術学校に卒業作品を提出するために上京、提出後、久富邦夫と碧雲荘(へきうんそう)に立ち寄り、「初代の手料理」で酒盃を傾けた。前年十一月二十九日消印の「一噛ひとかみの歯には、一噛ひとかみの歯を。」という一節を含む太宰治葉書から、初代が極秘の約束を破って、すべてを告白してしまったと思い込んでいた小舘善四郎は、手洗いで太宰治と一緒になった時、二人並んで用をたしながら、何か隠していられなくなって、初代との過失の真相を打ち明け、「結婚したいとかそういうことではない」といったという。話を聞いて、太宰は、一瞬険しい表情になったが、「それは自然だ」といって平静を装って酒席の座に帰ったという。小舘善四郎と久富邦夫とが帰ったあと、きびしく初代に訊問し遂に過失を告白させた。

小山初代と小舘善四郎(こだてぜんしろう)の過ち

 小舘善四郎(こだてぜんしろう)(1914~)は、青森市生まれの画家。太宰の5つ年下です。
 青森中学校を経て、1932年(昭和7年)に帝国美術学校(現在の武蔵野美術大学)の教授・牧野虎雄に師事。牧野の勧めにより、同校で学びます。1936年(昭和11年)11月、学校側の都合で繰り上げ卒業となった後に帰郷し、浅虫に居住していました。

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■1935年(昭和10年)秋、湯河原にて。左から、檀一雄、太宰、山岸外史、小舘善四郎。

 太宰と善四郎との付き合いは、太宰の四姉きやうが善四郎の長兄・小舘貞一に嫁した1928年(昭和3年)6月にはじまります。それ以降、善四郎の次兄・小舘保と共に、太宰、太宰の弟・礼治、従弟・逸朗との交遊を深めます。当時、弘前高校に通っていた太宰は、小舘家の三男である善四郎を弟のように可愛がりました。

 1932年(昭和7年)に帝国美術学校に入学後、保、姻戚の菊谷栄(劇作家)、根市良三(版画家)を交えて太宰との交流が頻繁となり、太宰を通じて、井伏鱒二、吉沢祐、山岸外史、中原中也檀一雄等を知ります。善四郎も学友・鰭崎潤(ひれざきじゅん)を太宰に紹介。太宰が後に聖書に夢中になるきっかけを作りました。

 今回、冒頭に出て来る「初代との過失」とは、1936年(昭和11年)10月、善四郎が自殺未遂を起こして入院した時に起こりました。ちょうど同じ頃、太宰もパビナール中毒療養のために武蔵野病院に入院しており、初代は、しばしば太宰のもとに面会に訪れましたが、閉鎖病棟に収容されていた太宰とはなかなか面会ができず、そのうちに、別の病院に入院していた善四郎を見舞うようになり、懇意になっていきます。


 太宰不在の時期に、善四郎と付き添っていた初代との間に起こった(あやま)ちは、太宰と初代の仲を引き裂く原因になります。

 太宰は、武蔵野病院を退院した後、11月29日付で善四郎に次のようなハガキを出します。

  静岡県熱海温泉馬場下 八百松より
  青森県浅虫温泉 小舘別荘 小舘善四郎宛

 寝間の窓から、羅馬(ローマ)の燃上を凝視して、ネロは、黙した。一切の表情の放棄である。美妓の巧笑に接して、だまっていた。緑酒を捧持されて、ぼんやりしていた。かのアルプス山頂、旗焼くけむりの陰なる大敗将の沈黙の胸を思うよ。
 一噛(ひとかみ)の歯には、一噛(ひとかみ)の歯を。一杯のミルクには、一杯のミルク。(誰のせいでもない。)
「傷心。」
 川沿いの路をのぼれば
  赤き橋、また ゆきゆけば
   人の家かな。

 「ハガキ冒頭~(誰のせいでもない。)」までは、HUMAN LOSTの一節ですが、このハガキを読んだ善四郎は、初代が、2人の秘密を太宰に漏らしてしまったのだと勘違いし、「秘め事にしてほしいと哀願した初代の事が無性に腹立たしく思われ」たといいます。そして、居ても立ってもいられず、善四郎が自分の口で太宰に打ち明けたのが、1937年(昭和12年)3月上旬頃という訳です。

 この出来事以降、善四郎は生前の太宰と会うことがありませんでしたが、太宰は故郷の金木町に疎開中の1946年(昭和21年)8月24日付、善四郎の妹・小館れい子宛の書簡に、次のように書いています。

 四郎君の事、ひどいことを言いふらすひともあるものですね、あきれました、ケチくさいねたみ根性からでしょうが、実にばからしい。松木さんもそれを信じていないようでしたが、それを松木さんにまことしやかに教えたひと(誰だかわかりませんが)そいつは、きっと卑劣なやつです、こんど松木さんに逢ったら言います、
 私は四郎君の今後の家庭生活の幸福をいつでもひそかに祈っていました、秋頃には四郎君に案内していただいて十和田湖へ行ってみたいと思っています、

 しかし、多忙な日々を過ごす太宰に、善四郎と十和田湖へ行く機会はありませんでした。同年11月、太宰は疎開先の金木町から三鷹の自宅に戻ります。

 善四郎が、三鷹禅林寺にある太宰の墓参りを果たすことができたのは、太宰の妻・美知子の一周忌法要が営まれた1998年(平成10年)、太宰の没後50年のことでした。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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