記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】3月7日

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3月7日の太宰治

  1943年(昭和18年)3月7日。
 太宰治 33歳。

 三月六日、七日。四谷の音楽スタジオで、阿部合成(あべごうせい)の個展が開かれた。その下見に阿部合成夫妻、山岸外史と会場に行き、その直後山岸外史から絶交状が送られてきて、四月中旬まで、疎遠になった。

山岸の送った絶交状

 今日のエピソードは、山内祥史太宰治の年譜』では2日間にわたる出来事として書かれています。そこで、前編・後編と2日に分けて、異なった観点から、このエピソードを紹介していきます。今回は、その後編です。

 山岸外史によると、前後14年に及ぶ太宰との付き合いの中で、絶交しようと考えたことが3回あったそうです。
 1度目は、1937年(昭和12年)頃、太宰との交友がはじまってから2、3年目くらいの時。2度目は、今日紹介するエピソードの頃。3度目は、戦後に太宰が故郷の金木から三鷹に戻って来た頃。この時、太宰に宛てて送ったのは「正真正銘の絶交状」だったといいます。

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■1935年(昭和10年)秋頃の山岸外史。

 今回は、山岸が2度目の太宰との絶交を考えた頃、阿部合成(あべごうせい)の個展の下見に行ったエピソードを、山岸外史『人間太宰治から引用して紹介します。

 あるとき、太宰とぼくが、太宰と同郷人であった画家阿部合成君からの相談をうけて、彼がひらく個展のための画廊の下検分を手伝ったことがある。昭和十七八年頃だったと思う。戦争の最中であった。太宰から紹介されて以来、ぼくも阿部君とはきわめて親しくなっていた。しばしば三人で痛飲したこともあるのだが、そんな関係があって、ある日、ぼくたち三人はその画廊をみにでかけたのである。阿部君の細君もまじえた四人であった。
 四谷駅に近い、一見すると教会を思わせるような建物であった。阿部君はそんな会場をみつけだしていた。彼は、ぼくたち文学者とはかなり異質で、なかなか(アクセント)のつよい画家だった。その体質がきわめて面白かったのだが、その建物のなかを歩きながら、絵をかける壁の検分をしている間に、じつに奇妙なことを言いだしたのである。奇妙といってもあたらないが、阿部君は、展覧会の当日すべての壁を自分の絵で飾っておいて、広間の中央にあった小さな舞台のうえでセロを弾かせてみたいといいだしたのである。そこにあった小さな舞台が阿部君の気にいったようであった。彼と同郷の友人に不遇なセロイストがいた。そのセロイストを招いて音楽祭もかねたような雰囲気で、三日ほど展覧会を楽しんでみようという提案である。そのセロイストがデビューした音楽祭にも、太宰とぼくは招かれて出席したことあるが、親友万歳、青森万歳をやろうということだったのかも知れない。
  (中略)
 ぼくたちは広間のステージをみながら阿部君の個展の第一目的は、いったいなんなのかと考えはじめたものである。音楽祭に賛成できなかった。まじめな展覧会にしたかった。太宰は阿部君に遠慮して、あまりなにもいわなかったが、ふと太宰の表情をみると、太宰も内心では苦が虫をつぶしているようであった。親しい友人画家の性格は、太宰にも理解しにくかった節がある。ぼくにしても、個展というものは、画家の純粋な努力とその成果を世に問うことだと思いこんでいたのである。じつはぼくたちの方にこそ偏見があったのかも知れないが、阿部君自身の展覧会への空想が拡大すればするほど、ぼくたちの間にはなにかやるせないような重苦しい雰囲気が生れていった。じつは絵の仕事を麗々しく壁に飾るということそのことが、すでに文学者のぼくたちには、ほんとの意味では理解しにくいものであったのかも知れない。

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■阿部合成

 太宰と同郷であるそのセロイストのデビューの音楽界の帰途、太宰が、ぼくにいったことがある。
「どうも舞台に立つ芸術は苦が手ですよ。音楽は音ひとつまちがえたら、もう、駄目なんだからね。それを思うと、聞いてられなくなるくらい苦しくなるネ」太宰は電車に乗ってからも、しきりに額の汗を拭いていた。そのセロイストの陰鬱で不器用な重苦しい情熱と、表現しきれていない音の息苦しさに、同郷人であっただけに太宰は気が気でなかったらしい。
「情熱はよくわかるのだが」ともいったが、そのセロイストがその不遇な努力家であっただけに太宰が、神経質になって聞いていたことがぼくにもよくわかった。
  (中略)
 そのセロイストを阿部君は、かなりに評価していた。その鈍重な苦悩と呻吟のリアリズムに共感できたのだと思う。だからそのセロイストを展覧会の伴奏にすることに乗り気だったのだと思う。愛情がもてたのである。今日考えてみると、この暗鬱なセロを伴奏にして、暗鬱きわまる阿部君の絵の展覧会を開催した方がよかったのである。それは歴史的なものだったかもしれない。時代の暗い苦悩はリアリズムとして表現できたはずである。観覧人がひとりのこらず逃げだしてしまい、のこされたぼくたちだけで敗北展の祝盃をあげた方が、まぎれもない阿部君の個展だったのである。
「もっと地味にやれんかね。阿部君」
 けれどもそういわなければ不誠実だと思って、その日、ぼくはそう言った。やはり、大衆を考えていたところが通俗的だったと思う。失敗する展覧会をひらくことの度胸がまだなかったといってもいい。すこしズレている角度から彼の展覧会を心配しすぎたのである。
「ぼくも、山岸君に賛成なんだがネ」
 太宰もようやく口をひらいてそういった。むろん、そんなぼくたちだったから、個展をもう少し延ばしたほうが、阿部君のためにいいのではなかろうかという慎重な意見もないわけではなかった。今日考えてみると、そこにも誤差があったのである。阿部君は精一杯の仕事をやったあとであった。それだけで十分だったわけである。しかも阿部君は、二科展や独立展などと遍歴をかさねて、ながい間苦悩の生活をしていた。阿部君は、この辺でひと息いれて、世間の批評も聞きたかったのである。この頃の彼は、どこの会にも所属していなかった。おそらく苦悩の暗い谷間を彷徨(さまよ)いつづけて、逃亡の出口さえ見失っていたのである。それなればこそ、また、ぼくたちの交友も深まったのだと思う。そしてぼくたちには、すこし事大精神がありすぎたようにも思うのである。
「だが、君たち。展覧会なんて、そんな程度のものなんだぜ。音楽入りでもいいじゃないか。どうせ、プロバガンダさ」
 阿部君がそういった。
「展覧会に音楽のはいるのもいいもんだよ。この正面の壁にあの大きな漁民たちのデッサンをおいてだね。ウィスキーぐらい準備して、つまりみんなで遊べばいいんだ」
 阿部君はゆずらずに言いつづけた。
「とにかく、正面きらないでくれよ。君たちはむずかしくっていけないよ。芸術は楽しむことが主だと思うんだがね。それじゃ、いけないのか」
 ぼくたちが、ひと言ふた言いうと、阿部君が猛烈な勢いで反駁を加えることになった。
  (中略)
 「君の空想はよくわかるのだが、なにも音楽祭にしなくってもいいと、山岸君はいってるのじゃないか」
 太宰が通弁になったようにそう言った。
 そんなあとだったが、ぼくはいささか息苦しい気分になって屋外にひと足さきにでたのである。壁の検分もすんだので、ぼつぼつ帰える時間にもなっていた。阿部君は屋内にのこって、賃貸料のことで細君といっしょに係りのものとの交渉などはじめていた。
 ぼくは屋外に出るとおおきくのび(、、)をしたあとで煙草など吸いながら、傍にあった立木によりかかって、みなのでてくるのを待っていた。そこの広場には砂利が敷きつめてあった。そのとき太宰も建物の扉をあけてその砂利の広場にでてきたのである。そこまで十歩くらいの距離があった。
 太宰も阿部君との問答でかなり疲れていたのだと思う。当惑していたのかも知れない。その扉からでてくると、どういうわけかぼくをみつめて、にやっと笑ってみせたのである。同感を求めるような卑しい笑い方であった。そこには、あらわに阿部君への軽侮や卑屈な裏切りが、厭らしいまでに浮んでいたのである。阿部君にはぼくたちの言葉が理解できないという侮蔑さえ含んでいたと思う。ぼくへのお追従もあったのかも知れないが、ぼくはその笑い方にユダを感じた。キリストは、ユダになっていた。ぼくはこの友人にみたくない微笑をみたような気がした。ぼくは苛酷な人間だったのかも知れないが、なにかそういう太宰を許せないような気がした。(この洗礼者のヨハネは、太宰にあくまでもキリストを求めていたのだろうか。)
 ぼくは樹によりかかっていて黙ったままじっと太宰をみていた。ぼくは太宰の笑い方に同調しなかった。しかし、太宰はぼくのその眼をみると、さっと表情をかえて緊張した。ぼくの眼は冷たかったのかも知れない。ぼくはそれ以上なにもいわなかったが、これが太宰のいちばん油断のできないところだと思っていた。太宰はそういうぼくに、あきらかに危険を感じたらしく、すぐにはぼくのところに近よってはこなかった。広場の砂利のうえを二三歩歩いて、そこで、阿部君のでてくるのをなにげない姿勢で待っていた。ぼくは、その姿勢をみていて太宰もなかなか敏感な男だと思ったものである。

 【了】

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【参考文献】
・山岸外史『人間太宰治』(ちくま文庫、1989年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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