3月14日の太宰治。
1935年(昭和10年)3月14日。
太宰治 25歳。
三月、東京帝国大学は落第と決定し、都新聞社の入社試験を受けたが、失敗。
太宰の就職活動
1月24日の記事で、東京帝国大学在学5年目にして取得単位ゼロだった太宰が、大学を卒業できなければ仕送りを停止すると長兄・文治に脅され、何とか卒業するために東奔西走するエピソードを紹介しました。
しかし、太宰の奮闘も空しく、東京帝国大学は"落第"となります。行き詰ってしまった太宰が取った、次なる施策とは?太宰の親友・檀一雄の『小説 太宰治』から引用して紹介します。
かりに、東大の卒業が駄目になるような事があるにせよ、都新聞にさえ這入れれば、と、太宰のこれは可憐なまでの悲願であった。
当時、都新聞の学芸部に勤めていた、中村地平ともしきりに打合わせをし、いかにも大事げに、臆病げに、その忠告なぞにきき入っていたのを覚えています。しかし、ちょうど上泉秀信氏が学芸部長であり、井伏さんのすぐ近所で、今度は案外物になりはしないか、という妄想に大きな望みをかけているようだった。全く甲斐々々しく、太宰は大喧噪 で、
青い背広で心も軽く
などと、流行歌を妹の前で口遊 んで見せたりしながら、私の家から、その青い背広を着込んでいった。口頭試問の時であったろう。
しかし、見事に落第した。
太宰の悄気 かたはひどかった。連日のように高砂館と云う、荻窪の汚い活動小屋に出掛けていって、
「泣けるねえ」
と、いいながら大きなハンカチで、新派悲劇や股旅ものに大粒の涙をこぼしていた。これをまた、自分で「高砂ボケ」と称して、
「おい、檀君。高砂ボケにつき合わないか?」などといいながら、初代さんを伴って、出掛けていったものだった。よく飲んだ。
大学卒業が不可能だと知った太宰が取った行動は、なんと就職活動でした。都新聞社とは、現在の東京新聞社です。
太宰と「しきりに打合わせ」をしたという
中村は、「『喝采』前後」というエッセイの中で、太宰が中村を都新聞社に訪ねた際、対談中も、パビナールを打つために何度も席を外したことを記しています。
■中村地平
中村は、1930年(昭和5年)に4月に東京帝国大学文学部美術史科に入学。入学試験の会場で、太宰と知り合いました。太宰の師でもある井伏鱒二に師事し、太宰・小山祐士とともに、「井伏門下の三羽烏」とも言われました。
東京帝国大学を卒業した、1934年(昭和9年)4月。中村は、
この後、中村は、1935年(昭和10年)9月、太宰が都新聞社の入社試験失敗後に起こした失踪と自殺未遂を題材にした小説『失踪』(「行動」に掲載)を発表します。中村は、この『失踪』の中で、太宰の風貌・性格を「異様な一青年」「どこかに悲劇的な宿命を感じさせる深い陰影があった」「血肉の愛情というものを知らず、他人の愛情を求める気持ちが強いにも拘らず、他人から注がれるそれを素直には信じられない性格」「弱い性格で、心にもない言葉で表面を糊塗する癖」「ニヒリスティックな彼の性格や生活」と描写し、そして、「君の弱い体で無理に生きてゆく必要はないのだ。修二よ。死にたかったら死んじまえよ」と記しました。
この中村の『失踪』に対し、太宰は、翌年の1936年(昭和11年)10月、中村との交友を題材にした小説『喝采』(「若草」九月号に掲載)を発表しました。中村はこれを読み、自分が戯劇化されていると感じ、不快に感じたそうです。
こうしたやり取りもあり、太宰と中村は絶交状態となっていましたが、1962年(昭和37年)のエッセイ「『喝采』前後」に、当時、作品を読んだ時、「自分がカリカチュアライズされているという理由からだけでなく、文章にあらわれている僕への好意らしきものも、口さきだけの、おべっかにすぎないとひがんだ。読後の印象として、ひどく不愉快なものをうけとった」と述べ、さらに続けて「しかしこんど、あらためてよみかえして、僕は自分に対する太宰の友情を(その限界においてではあるが)素直にうけとることができた。正直に言って、死んだ太宰をひどくなつかしく思ったのである」と、亡き太宰と和解したことを記しています。
【了】
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【参考文献】
・檀一雄『小説 太宰治』(岩波現代文庫、2000年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・青柳いづみこ・川本三郎 監修『「阿佐ヶ谷会」文学アルバム』(幻戯書房、2007年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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