記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】3月17日

f:id:shige97:20191205224501j:image

3月17日の太宰治

  1946年(昭和21年)3月17日。
 太宰治 36歳。

 三月上旬、次兄・津島英治の一人息子・津島一雄が、弘前市元寺町の青森師範学校を受験することになり、同行で教職に就いていた小野正文を訪ね、男子部長・築山治三郎に逢った。

太宰、友人の小野正文を訪ねる

 今回は、太宰が故郷の金木町に疎開していた時のエピソード。
 太宰は、次兄・津島英治の一人息子・一雄が弘前市元寺町の青森師範学校を受験することになったため、同行で教職に就いていた友人の小野正文(おのまさふみ)(1913~2007)を訪ねます。

f:id:shige97:20200315110629j:image
■小野正文

 小野は、教育者であり、太宰治研究家。青森中学時代に太宰の2年後輩で、敗血症で亡くなった太宰の弟・礼治と同学年でした。

 小野の著書太宰治をどう読むか』から、太宰が小野を訪問した際のエピソードを引用して紹介します。

 青森市が昭和二十年七月二十八日に戦災を受け、私のつとめていた師範学校が炎上し、その暮れ、臨時に弘前市に移転ということになり、ある小学校を使用していた。私はしばらく青森市から汽車通勤していたが、その往復の交通難は言語に絶した。窓からの出入、昇降、吹雪の中の遅延など悪夢のように思い出される。
 年が明けてからは、小学校の大きな作法室に同僚たちとともに寝起きし、ひとりで小使室の炉で飯盒(はんごう)の炊事をした。全く侘しい毎日がつづいていた。
 ある日、中年の上品な婦人が、学校の玄関に立っていた。「修治が、」といって太宰治の手紙を差し出した。太宰の次兄英治の奥さんであった。手紙は、いそいで目を通したが、内容は次のようなものであった。
 「拝啓 御健在の御様子、私は三鷹の家は爆弾で半壊となり、それから甲府の女房の実家に避難しましたが、これまた焼夷弾で丸焼けとなり、万策尽きて昨年八月、終戦直前に、妻子を連れて金木の生家に来て、目下、家兄の居候生活です。このごろはまた、何々主義、何々主義で変調子の運動ばかりで、ばかばかしい限りと考えます。私はいま「冬の花火」という三幕の戯曲を書いています。戯曲もなかなか骨が折れるものです。
 さて、きょうはちょっと御願いがあるのですが、私の二番目の兄英治さんのひとり息子の津島一雄が復員して、こんど師範にはいりたいと言っていますが、その手続きなど、この一雄のお母さんに教えてやって下さい。一雄は温和な性質のようですから、学校の先生に適してしるように思います。さいわい貴兄が師範の先生をしていらっしゃるそうで、一雄にとっても仕合せなことでした。よろしく御願い申します。
 いずれ私も、そのうち弘前へ行く事があるでしょうから、その折には、必ず師範に立ち寄り、久し振りで清談を交したいと思っています。津軽へ来て一ばん困るのは、話相手の無い事です。金木へもひとつ泊りがけで遊びに来て下さい。お大事に。」
 文字通り久し振りの手紙であったし、太宰の近況を知らないでいた私は、(にわか)に身近に彼が出現したような喜びを感じた。それでも、私はまだ太宰の清談の相手になれるほど、成長もしていない自分を省みてさびしい気持がした。
 その何日か後に、当の太宰治が姿を現わした。手には四角な大きな風呂敷包をさげ、カーキ色の乗馬ズボンに背広を着て、軍靴をはいていた。小学校の玄関に、何の屈託もなく、健康な微笑をうかべて立っていた。
 図書室へ通すと、他の二、三の教師がいたが、ストーブを囲んで雑談をした。話の内容は忘れたが、甥のK君のことには一言もふれず、今書いている「冬の花火」のことを話した。「劇というのは、書いて字の通り、全く(はげ)しいものだ。なんというか、小説にくらべて、立体的なダイナミックなものがある。出来あがったら、持ってきて、皆さんにきいていただきましょう。」
 刻み煙草を煙管(きせる)につめて()っていたが、彼の表現では「豪傑」というのみ方だ。一口二口すって、ストーブ(円く平たいまき(、、)用の)鉄板に灰をたたきおとすと、雁首(がんくび)が離れて、一米もむこうの床まですっとんだ。それをのこのこ()ちあがって、そこまで拾いにゆき、雁首をはめこみ、また刻みをつめこんで、二口ほど、すってぽんとたたけば、ぴょんと一米むこうにとんでゆく。また、ゆっくり歩いて拾ってきて煙管の先へはめる。そして話のつづきをはじめる。にこにこ笑いながら、灰を払うためにぽんとたたくと、当然のことでまた雁首がとぶ。それを十回近く繰りかえした。それが、別段わざとらしくもないが、それかといって、全然無意識なはずもなく、全くユーモラスな風景であった。彼の上機嫌な表情は忘れられない。金木から弘前へ出てきたことの開放感のようなものだろうか、と考えて見た。
 彼が帰ってから持参の紙箱をひらくと、大きくやわらかな、真白い餅が入っていた。

 「話の内容は忘れた」にもかかわらず、「別段わざとらしくもないが、それかといって、全然無意識なはずもなく、全くユーモラスな風景」を小野に印象付けた太宰。これが、太宰のコミュニケーション術なんでしょうか?
 次兄の一人息子のために、自身の伝手を頼って行動する太宰の姿も印象的です。

 【了】

********************
【参考文献】
・小野正文『太宰治をどう読むか』(弘文堂、1962年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************

【今日は何の日?
 "太宰カレンダー"はこちら!】

太宰治、全155作品はこちら!】