記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】3月20日

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3月20日の太宰治

  1933年(昭和12年)3月20日。
 太宰治 27歳。

 三月二十日前後、初代とともに水上(みなかみ)村谷川温泉に行き、川久保屋に一泊。

太宰治水上心中

 3月20日前後、太宰は妻・小山初代(おやまはつよ)とともに、群馬県水上村谷川温泉に行き、川久保屋旅館に一泊します。

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■谷川橋際の元川久保屋旅館の建物

 翌日、太宰と初代は谷川岳山麓(さんろく)で、睡眠剤カルモチンによる心中自殺を図りましたが、未遂に終わりました。

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■鎮静 催眠剤 カルモチン。当時の広告には、「連用によって胃障害を来さず、心臓薄弱者にも安易に応用せられ、無機性ブロム剤よりも優れたる鎮静剤として賞用せらる。」と書かれている。

 2人で山を下りた後、太宰は単身、ほかの宿に移ります。
 初代は、叔父の吉沢祐五郎に電報を打ちました。初代を迎えに来た吉沢は、「宿に着いた時既に太宰は他の宿に移っていて居らず、初代が一人部屋に居た。部屋の窓近くに山が迫っていて、その山裾を拭き払うような勢いで風、イヤ雲が流れ、恐ろしい感じがした。」「帰りの汽車で俺と初代が向い合わせに座ったが、初代は進行方向に向いて座っていたので、水上温泉はどんどん後に消えて行く。初代は、たった一度だけ、後をふり向いた。そして、ハンカチを眼に当てた。明らかに泣いていた。」そして、「目にゴミが入ったのだ」と言い訳をしたと、当時のことを書いています。寒い日だったそうです。

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■小山初代。1932年(昭和7年)撮影。

 東京に戻った初代は、汚れた服装のままで井伏鱒二宅を訪れます。井伏の妻・節代は、「その時の初代の憔悴(しょうすい)した姿があまりにも哀れで、思わず手をとり合って玄関で一緒に泣いてしまった」といいます。 
 その後、初代は、太宰と暮していた碧雲荘(へきうんそう)には帰ることなく、井伏家に滞在し、別居生活を送りました。井伏は、一応このことを太宰の耳に入れておきましたが、太宰からは初代に関して、何の希望も条件も無かったそうです。
 太宰は、その後も時折、井伏家を訪れては、井伏と世間話をしたり、将棋を指したり、荻窪駅前で夜を徹して飲んだりしましたが、初代については一言も触れることはありませんでした。井伏夫人も気遣って、太宰が訪問している時には、初代を自分の部屋から出さないようにしていたそうです。

 これが、7年近くを共に過ごした太宰と初代の、生涯の別れとなりました。

 この、太宰4度目の心中未遂事件は、3月5日の記事に書いた、太宰がパビナール中毒療養のために武蔵野病院に入院していた際、初代が犯してしまった過ちに端を発すると言われています。

 太宰は、この「水上心中事件」を題材に、姥捨(おばすて)を書いています。
 この姥捨(おばすて)、過去の太宰研究者の間では、事実が書かれている私小説とされてきましたが、実際には創作(フィクション)もかなり含まれています。
 太宰は、作品の冒頭で、

 あやまった人を愛撫(あいぶ)した妻と、妻をそのような行為にまで追いやるほど、それほど日常の生活を荒廃させてしまった夫と、お互い身の結末を死ぬことに依ってつけようと思った。早春の一日である。

と書いています。
 この小説を脱稿したのは、翌年1938年(昭和13年)8月13、14日頃。事件から、ちょうど1年半が経った頃のことです。
 あくまでも私見ですが、太宰って、なんでも小説の題材にしてしまうんだなぁ…という思いもあります。

 【了】

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【参考文献】
・長篠康一郎『太宰治文学アルバム』(広論社、1981年)
・長篠康一郎『太宰治水上心中』(広論社、1982年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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