記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】3月21日

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3月21日の太宰治

  1935年(昭和10年)3月21日。
 太宰治 25歳。

 三月二十日頃、小田嶽夫が天沼の住居を訪れた時、「太宰治は首にまっ白い包帯をしていた」。

縊死(いし)未遂事件の顛末

 長兄・津島文治に東京帝大を卒業できなかったら仕送りを止めると言われたため、単位ゼロにもかかわらず、東奔西走するも、卒業に失敗し、中退。

 「それなら、代りに!」と、就職活動。友人の中村地平を頼りに、都新聞社の入社試験を受けるも、また失敗。

 八方塞がりとなってしまった太宰は、鎌倉へ向かい、鎌倉八幡宮の裏山で縊死(いし)を図りますが、紐が切れ、未遂に終わります。
 鎌倉での縊死未遂については、鎌倉へ向かい、縊死が未遂に終わるまでを3月16日の記事で、突然の太宰失踪を心配して集まる友人・知人の元に太宰が戻って来るまでを3月18日の記事で紹介しました。

 今日は、太宰3度目の自殺未遂について紹介する三部作の完結編ということで、縊死未遂事件の顛末(てんまつ)について紹介します。


 太宰が、突然の失踪を心配して集まる友人・知人の元に戻った3月18日の翌日。3月19日付の「東京日日新聞」に、師匠・井伏鱒二「どうか頼む! 太宰君、帰って来てくれ。今日も私は三浦半島へ君を捜しに行って帰って来たところだ。」という訴えの記された、「芸術と人生」と題する文章が掲載されました。
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 杉並署へ捜索願を出し、自ら三浦半島へ太宰を捜しに行った井伏の、切々たる気持ちが伝わってきます。

 この時、何手かに分かれて太宰捜索にあたったようなのですが、この時の様子を、檀一雄『小説 太宰治に書いているので、引用してみます。

 ところで、どうして太宰の出奔を知ったのか、私には記憶がない。多分、初代さんが、私のところへ駆けつけて来たのだったろうと想像するだけである。「晩年」は状袋のまま、もう私が預っていた時だったろう。急いで飛島氏の家に駆けつけた。井伏さん、飛島氏、それに伊馬鵜平、地平達みんな集っているようだった。
 「何処へいったろう? 死に場所は」
 と、まず誰もの疑問はそこへ集った。
 「太宰は自分の行き馴れたところ以外には、決してゆかない男です。さあ、熱海か三島か江ノ島だな」
 と、私は思うままにそう云った。無用の新しい気苦労に耐え切れぬのだろうと、想像するのだが、太宰が自分一人で新しい天地を開拓するという事は全くない。臆病だからである。
 「僕は狂言だと思うがなあー」
 と、中村地平は云っていた。私はそうは思わなかった。(中略)今、太宰の自殺をはっきりとたしかめてから云うわけではないが、太宰は自分の文学が自殺を待たねば完成をみないという強烈な妄想を早くから持っていた。その妄想に関してだけ、驚くほど誠実である。これはもちろん功名心にも随分関与したものだった。人の批評に耐えられない。また、自分の名声にも安堵がゆかぬ。
 この時も、確実な手段にさえ思い到れば、やっぱり死ぬだろう、と私はそう思った。とすると、行く先は熱海か、三島か、江ノ島だった。
 「じゃ、檀君。心当りを廻ってみてくれない?」と、井伏さんと、飛島氏から頼まれた。旅費も預かる。私は急いで家に帰って、今度は留守の間古谷綱武の家に妹を預けにいった。
 可笑しい、平常、太宰とよく家をあけてその都度妹をほったらかした癖に、太宰の失踪を知って、きっと気弱くなっていたのだろう。
 熱海に降りた。夜だった。私は早速警察に駆け込んで一切の宿帳をくってみた。どんな匿名を使っていても、その語感から私は即座に見分け得る自信を持っていた。年齢と名前の調子をさえ見れば。しかし、宿帳の控にはそれらしい者は見当らなかった。女の心当りはなかったが男女同宿の部も注意深く読んでみた。制服制帽で出掛けているから、職業を隠す事は難しい。それにしても、最後を制服制帽で出掛けたのは、潔癖な太宰らしいエレガンスだと私は思った。
 「このニ、三日、界隈に自殺者はありませんか?」
 「いや、ないですなあー」と巡査は云っていた。「今から、消防自動車を出して上げますから廻ってみたら? 外にも捜索の男女を頼まれているのですよ」と、この夜の巡査は大変親切だった。
 私は云われるままに自動車に乗り、夜の街を疾駆したが、警笛と一緒にかき鳴らす鐘に、かえって五里霧中に落入る心地である。暗かった。温泉の街の模様は皆目わからなかった。
 車は坂を降り、それから渚に添ってまた上り、トンネルを抜け「魔の淵」からかなり奥まで捜索してくれた。男女の人影が一度、ライトを浴びてうかび出し、車は急停車して、
 「あなた達何ですか? まさか心中じゃあるまいね?」
 と、相乗りの巡査は言っていたが、男女はクスクスと笑うばかりのようだった。死ぬ風情には見えなかった。
 「逢曳きかあ、今頃ふざけやがって」
 車が走り出すと、巡査は私に笑いながらそういった。警察に舞い戻った。私は鄭重(ていちょう)に礼をのべた。
 「明日にでも、そんな男が見附かったらお報らせしますよ」
 私はその巡査に紹介された宿屋へ、出掛けていった。
 夜の湯に一人浸った。眠れぬままに何度も浴室に降りていった。
 翌朝は寝過した。昼近い陽をガラス越しに受けながら、浴槽の中で湯に浸り、自分の足をヒラヒラさせていると不意に、もうどうでもいい、という気持がした。馬鹿々々しいではないか。自分は自分だけで、この五体にともっている生命を、大切にはぐくめばよい。
 自愛である。私は、旅装を整えると、まるで遊山者ででもあるように、ブラブラと山の辺りを歩き廻った。
 山腹の傾斜面に、新しく掘削されたのか、温泉が一つ、高く噴き上げているのは、妙に感動的だった。梅の花であったか、小さな花樹が一本、その温泉の飛沫を浴びて濡れていた。
 私は三島を申し訳だけに、そっ気なく廻り、荻窪の飛島氏の家に帰っていった。ほとんど前後して太宰が、フラリと帰って来た。

 かなり、ドライな印象を受けますが、太宰が玉川上水で心中した際に「太宰の芸術は太宰の死によって完成した」と、太宰の死を擁護したという檀一雄。これが、檀なりの愛情表現のカタチだったのかもしれません。
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 続いて、「フラリと帰って来た」太宰を見た人たちの証言。
 飛島多摩は「のどもとに首吊りの跡が薄気味悪くついてい」て、そのあと「首にはしばらく傷あとが残ってい」たといい、小田嶽夫「太宰はまっ白い包帯をしていた」といい、小山書店店主・小山久二郎は「風邪でも引いたのか、首にほう帯をまいていた」といいます。

 この事件のあと、井伏鱒二檀一雄、中村地平の3人が、神田淡路町の関根屋に太宰の長兄・津島文治を訪ね、あと1年の送金を依頼しました。

 長篠康一郎は「長兄からの送金が大学卒業までという条件であったことを考え合わせるならば、この事件も仕送り期間の延長を図った演出のようにも考えられます。」と言っていますが、太宰的にこの顛末は、目論見通りだったのでしょうか………。

 【了】

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【参考文献】
・山崎富栄 著・長篠康一郎 編纂『愛は死と共に 太宰治との死の遺稿集』(虎見書房、1968年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
檀一雄『小説 太宰治』(岩波現代文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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