記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】3月22日

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3月22日の太宰治

  1940年(昭和15年)3月22日。
 太宰治 30歳。

 三月二十二、三日頃、田中英光(たなかひでみつ)三鷹に訪れ、初めて対面。

田中英光(たなかひでみつ)との出会い

 田中英光(たなかひでみつ)(1913~1949)は、太宰治の弟子です。
 田中は、東京府東京市赤坂区榎坂町(現在の東京都港区赤坂)に、高知県出身の歴史家・岩崎鏡川(英重)の息子として生まれました。その後、岩崎家から母の実家である田中家に入籍。鎌倉市で育ち、神奈川県立湘南中学(現在の神奈川県立湘南高等学校)、早稲田第二高等学院を卒業、早稲田大学政経学部に進学しました。

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 早稲田大学在学中の1932年(昭和7年)、ロサンゼルスオリンピック漕艇(そうてい)(ボート)選手として、エイト種目に出場しました(予選敗退)。

 1935年(昭和10年)3月に早稲田大学を卒業後、横浜護謨(ゴム)製造株式会社(現在の横浜ゴム)に就職、朝鮮にある京城出張所勤務となります。
 就職と同年、同人誌「非望」の同人になり、8月に『空吹く風』を発表しますが、この『空吹く風』が太宰の目に留まります。太宰は、京城に住む田中に宛てて

君の小説を読んで、泣いた男がある。(かつ)てなきことである。君の薄暗い荒れた竹藪(たけやぶ)の中には、かぐや姫がいる。君、その無精髭(ぶしょうひげ)()り給え。

 と書いたハガキを送ります。
 以後、田中の師事がはじまりました。

 太宰は、1937年(昭和12年)2月、小島喜代と結婚し、朝鮮神宮で式を挙げた田中に宛てて「はきだめの花/かぼちゃの花/わすれられぬなり/わがつつましき新郎の心を 治」と書いた色紙も送っています。

 1938年(昭和13年)2月、田中は東京本社に出張した際、杉並区天沼に住んでいた太宰を訪ねるも、不在で会うことはできませんでした。

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■天沼一丁目の鎌滝家

 1939年(昭和14年)2月頃、出征して中国山西省臨晋にいた田中は、野戦病院に入院していた間に『鍋鶴』を書き、検閲酌量で、太宰宛に原稿を送付。発表誌の紹介を依頼しました。この原稿は、太宰の妻・美知子が清書し、「若草」五月号に発表されました。「若草」は文学好きの若者を対象とする文芸誌で、娯楽の少なかった戦前、人気がある雑誌でした。
 美知子は、田中の原稿を清書した時のことを、『回想の太宰治の中で、

田中さんの米粒のような細字の原稿を太宰の言いつけで清書して「若草」編集部に送った

と書いています。
 その後、美知子が太宰と一緒に町の本屋に入った際、『鶴鍋』が掲載されている「若草」を見つけ、「思わず、はしゃいだ声を出して太宰に知らせ」ると、「喜ぶかと思いの外、太宰はニコリともせず、一言も口をきかず」、厳しい横顔をしていたそうです。
 美知子は、

未だにそのときの彼の気持ははっきりわからないのであるが、つまりは作家は太宰治しかいないと思っていなくてはいけないということだったのだろうか。

と、この回想を締めくくっています。

 1940年(昭和15年)1月に除隊。3月に臨時本社販売部勤務となり、単身上京し、三鷹の太宰を訪問。これが太宰との初対面となります。太宰との交流がはじまってから、5年目の対面でした。
 この時、田中は『われはうみの子』『杏の実』を持参します。太宰は、中島孤島訳の『ギリシャ神話』に拠って、『杏の実』をオリンポスの果実と改題させ、2度にわたって書き改めさせたのち、「文学界」に斡旋します。
 「文学界」九月号に掲載された『オリンポスの果実』は、同年12月に第七回池谷信三郎賞を受賞。田中の出世作となりました。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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