記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】3月25日

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3月25日の太宰治

  1930年(昭和5年)3月25日。
 太宰治 20歳。

 三月二十五日付発行の「帝国大学新聞」第三百三十三号に文学部の合格者氏名が発表される。

太宰、東京帝国大学に合格

 3月13日の記事で、太宰の東京帝国大学の入学者選抜試験について紹介しましたが、今日は、その合格発表について紹介します。

 東京帝国大学の合格者は、3月18日に理学部、20日に農学部、22日に工学部・経済学部・医学部、23日に文学部、24日に法学部と順番に発表されました。太宰が受験した文学部は、志願者447名、受験者412名、入学を許可された者407名でした。

 文学部の合格者が発表された2日後の3月25日付「帝国大学新聞」でも、文学部の合格者氏名が発表されました。
 同紙には、「仏文特別試験の際仏語がすこしもわからず青くなって嘆願書をだした連中も首尾よく合格している」と書かれているそうですが、「仏語がすこしもわからず青くなって嘆願書をだした連中」には、もちろん、太宰も含まれています。
 ちなみに、この新聞記事は、前年の1929年(昭和4年)に、太宰の出身校でもある弘前高校から東京帝国大学経済学部に進学し、当時「帝国大学新聞」の編集者だった平岡敏男(ひらおかとしお)が作成したようです。

 「国民新聞」も号外を発行して、入学許可者を報道しており、仏蘭西文学科は、収容数24名で、入学者は23名だったそうです。
 「国民新聞」は、1890年(明治23年)2月1日に、徳富蘇峰(とくとみそほう)が創刊した日刊新聞。戦時体制下に「都新聞」と合併することになり、1942年(昭和17年)9月30日を以て廃刊し、10月1日から「東京新聞」が誕生しました。

 太宰と同じ年の文学部合格者には、次の人たちも名前を連ねていました。

中島敦(一高、国文学科)
・中村治兵衛(台北高、美学美術史学科)
・小泉静治(弘前高、哲学科)
・三戸斡夫(弘前高、仏文科)
・大高勝次郎(弘前高、経済学部)
・菅原敏夫(弘前高、経済学部)
・南部農夫治(弘前高、経済学部)
・石原左源太(水戸高、医学部)
・津川武一(弘前高、医学部)

 山月記』『光と風と夢』『弟子』『李陵』などの代表作がある中島敦(1909~1942)ですが、太宰と東京帝国大学の同級生なのでした。

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東京帝国大学仏文科1年生のとき。1930年(昭和5年)、左から中村貞次郎、太宰、葛西信造。

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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