3月27日の太宰治。
1947年(昭和22年)3月27日。
太宰治 37歳。
三鷹駅前の屋台で、今野貞子に紹介されて初めて山崎富栄と識り合った。
太宰と富栄の出逢い
今日は、太宰と最期を共にした、山崎富栄との出逢いを紹介します。
富栄は、太宰との1年半にわたる生活を克明に綴った6冊のノート(日記)を遺しています。今回はまず、そのノートから、太宰と出逢った日について書かれてある部分を引用して紹介します。
■太宰と知り合った頃の山崎富栄
この時、太宰37歳、富栄27歳でした。
三月二十七日
今野さんの御紹介で御目にかかる。場所は何と露店のうどんやさん。特殊な、まあ、私達からみれば、やっぱり特殊階級にある人である――作家という。流説にアブノーマルな作家だとおききしていたけれど、"知らざるを知らずとせよ"の流法で御一緒に箸をとる。"貴族だ"と御自分で仰言 るように上品な風采 。
初めの頃は、御酒気味な先生のお話を笑いながら聞いていたけれども、たび重ねて御話を伺ううちに、表情、動作のなかから真理の呼び声、叫びのようなものを感じて来るようになった。私達はまだ子供だと、つくづく思う。
先生は、現在の道徳打破の捨石になる覚悟だと仰言 る。また、キリストだとも仰言 る。――「悩み」から何年遠ざかっていただろうか。あのときから続けて勉強し、努力していたら、先生のお話からも、どれほど大切な事柄が学ばれていたかと思うと、悲しい。こうしてお話を伺っていても漠然としか理解できないことは、情けない。
千草で伺った御言葉に涙した夜から、先生の思想と共になら、あのときあの言葉ではないけれども――「死すとも可なり」という心である。
聖書ではどんな言葉を覚えていらっしゃいますか、の問いに答えて私は次のように答えた。「機にかなって語る言葉は銀の彫刻物に金の林檎 を嵌 めたるが如し」「吾子よ我ら言葉もて相愛することなく、行為と真実とをもてすべし」。新聞社の青年と、今野さんと私とでお話したとき、情熱的に語る先生と、青年の真剣な御様子と、思想の確固さ。そして道理的なこと。人間としたら、そう在るべき道の数々。何か、私の一番弱いところ、真綿でそっと包んでおいたものを、鋭利なナイフで切り開かれたような気持ちがして涙ぐんでしまった。
戦闘、開始! 覚悟をしなければならない。私は先生を敬愛する。
山崎富栄(1919~1948)は、父・山崎晴弘、母・信子の次女として、東京市本郷区東竹町に生まれました。
山崎晴弘は、1913年(大正2年)4月に、全国で最初の美容学校である東京婦人美髪美容学校(のちに、お茶の水美容学校と改称。文部省認可第一号)を創立しました。富栄は、この美容学校の後継者となるため、錦秋実業学校を卒業した後も、日本大学付属第一外国語学校で学びながら、YMCA(キリスト教女子青年会。日本では1905年に始まり、初代会長は津田梅子)に通学し、聖書や英会話、演劇の勉強に勤しみました。
その後、富栄は、お茶の水美容学校の講師を勤めるかたわら、叶美容室(お茶の水美容学校の実習所)6ヵ所の指導をしながら、銀座松屋デパート前に義姉・山崎つたと一緒にオリンピア美容院を経営しました。
1944年(昭和19年)、三井物産本社の飯田女史の紹介で、三井物産社員の奥名修一と交際。同年12月9日に九段軍人会館で結婚式を挙げ、お茶の水美容学校の一室に新居を構えました。しかし、挙式の12日後の12月21日、奥名はマニラに出張を命じられます。奥名は、マニラ着任後に現地召集され、モンタルパン付近の戦闘で行方不明となりました。
■奥名修一(28歳)
1945年(昭和20年)3月10日、東京大空襲のために美容学校が全焼。富栄も両親が疎開していた滋賀県八日市町に避難しました。
翌1946年(昭和21年)4月、義姉・山崎つたと共に、出資者・池上静子と美容院を共同経営するために、鎌倉長谷に赴き、美容院マ・ソアールを開業します。
同年11月、富栄は三鷹の塚本さき(お茶の水美容学校出身)のミタカ美容院に転じ、三鷹市下連雀一丁目の野川方に寄宿。その後、進駐軍キャバレー・ニューキャッスル内に新設された美容室に主任として、見習いの今野貞子と一緒に派遣されることになりました。
①「千草」の2階(太宰の仕事部屋)
②小料理屋「千草」
③野川家の2階(富栄の下宿先)
④玉川上水
1948年(昭和23年)頃に撮影。
この頃の太宰は、伊豆の三津浜で、『斜陽』一章、二章の草案を書き上げ帰京したところで、妻の美知子が出産間近だったことや、自宅に届いた太田静子からの手紙を見た美知子に、太宰と静子との関係を疑われたりと、自宅では仕事が捗らなかったため、三鷹郵便局のはす向かいの中鉢家の2階や小料理屋「千草」の2階を借りたりして、『斜陽』を書いていました。
太宰は15時で仕事を切り上げると、三鷹駅前通りの屋台うなぎ屋・若松屋へ、雑誌記者や訪問客を連れて、よく飲みに行っていました。
■三鷹の若松屋で。左から太宰、女将、野原一夫、野平健一。野原と野平は『斜陽』などを担当した新潮社の担当者。1947年(昭和22年)、伊馬春部が撮影。
3月中旬のある夜、太宰はいつものように駅前に飲みに出かけ、最後の店で来合せた女性に話しかけ、自分の小説を知らないことを半ば本気で慨嘆しながら、その女性を途中まで送りました。この女性が、今野貞子でした。
富栄は、駅前の屋台で知り合った太宰という作家の話を今野から聞きました。太宰が、富栄の敬愛する次兄・山崎
実際には、太宰は次兄・年一の2年後輩でしたが、富栄の下宿が太宰が仕事場にもしている小料理屋「千草」の筋向いだったことから、太宰に親しみを持つようになります。このとき富栄は、太宰の小説を読んだ事はありませんでしたが、「戦闘、開始! 覚悟をしなければならない。私は先生を敬愛する。」と、この日の日記を締めくくっています。この「戦闘、開始!」は、『斜陽』六章冒頭に引用されました。
太宰は、「千草」の女将・増田ちとせに、富栄を呼びにやらせたりしていたそうですが、増田はその頃のことを、次のように回想しています。
初め、店でお酒を呑んでいらした太宰さんの言いつけで、私の行きつけだった駅前の美容院まで、山崎さんをお迎えに行ったことがありました。山崎さんはそこで働いておられたわけで、私も山崎さんとは知らずに髪を結って貰っていたのです。姿のいい、綺麗な方だったので、ただ何となく心に留めていたのですが、お迎えに行って、ああ此の人だったのか、と本当に驚きました。
■小料理屋「千草」の女将・増田ちとせ
【了】
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【参考文献】
・山崎富栄 著・長篠康一郎 編纂『愛は死と共に 太宰治との愛の遺稿集』(虎見書房、1968年)
・長篠康一郎『太宰治文学アルバム』(広論社、1981年)
・長篠康一郎『太宰治文学アルバム ―女性篇―』(広論社、1982年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・『生誕105年 太宰治展―語りかける言葉―』(神奈川近代文学館、2014年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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