3月28日の太宰治。
1948年(昭和23年)3月28日。
太宰治 38歳。
「展望」連載第一回分の「人間失格」百三枚、「第二の手記」までを脱稿し、三月三十一日、帰京。
太宰の近況 ー富栄の日記から
3月8日、9日の記事でも紹介しましたが、太宰は、筑摩書房の創業者・
そして、今日3月28日は、『人間失格』が連載された雑誌「展望」に掲載予定のはしがき、第一の手記、第二の手記までを脱稿した日です。
今日は、起雲閣に一緒に滞在していた山崎富栄の日記から、この日書かれた部分を引用してみます。
三月二十八日
上天気、海が和 いでいて心地よい。
人間失格、第二の手記までを脱稿。よい作品です。
前文ごめん下さいませ。
太宰さんの御留守中(展望の御仕事のため、カンヅメにされていらっしゃいました)に御便りを受けましたので、御返事がたいそうおくれました。とり敢えず太宰さんの御様子を"落丁集"によせておしらせ致します。
かしこ
太宰代理
太 田 様
三月二十八日
三月三十一日投函
(落丁集)
○またまた喀血して重態だとか、いやぴんぴんしてカストリを飲んでいるとか。逢う人によってみな様子が違うので、「斜陽」完成以来、とに角容態が危ぶまれている太宰治氏。
○じつは、いずれも真説らしく、夫人も少しも目が離せないといった次第だが、小康を得るとすぐ仕事場へいくというのを止める訳にもいかず、さて仕事場へ行ってもアルコールが切れているときは、構想も浮かばないとあっては、止むなき原罪でもあろうか。
○先日も織田作之助の一周忌を記念して、ゆかりの銀座「鼓」に坂口安吾、林芙美子などと共に、故人の生活者としての偉大をたたえるとあって、万難を排して出席、いずれ劣らぬ豪の者ばかりで、すさまじいばかりだったとか。
――落丁集(読売新聞)
治「落ちつくから、小さいのを送ってやろうか――」
私「ドキ、ドキ、ドキ、……」
富栄は、太宰の秘書のような役割も果たし、太田静子とのやり取りも担っていました。静子からの手紙に対する返事が遅れたことを詫びながら、常に太宰の側に寄り添っているにもかかわらず、太宰の近況報告を、読売新聞に掲載された記事「落丁集」を引用して済ませているあたり、富栄の精一杯の抵抗だったのでしょうか。
■起雲閣滞在中の3月11日付と12日付の間にスケッチされた、太宰の寝顔。
【了】
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【参考文献】
・山崎富栄 著・長篠康一郎 編纂『愛は死と共に 太宰治との愛の遺稿集』(虎見書房、1968年)
・長篠康一郎 編集兼発行人『探求太宰治 太宰治の人と芸術 第4号』(太宰文学研究会、1976年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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