記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】3月31日

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3月31日の太宰治

  1943年(昭和18年)3月31日。
 太宰治 33歳。

 三月には甲府に行き、石原家と甲府市湯村温泉明治屋とに滞在して「右大臣実朝」の稿を継いだ。石原家では、岳父石原初太郎の蔵書「歴史地理」第参拾参巻第参号の「源実朝号」(大正八年三月一日付発行、日本歴史地理学会)など、「歴史地理」バックナンバーを披見した形跡がある。石原家に滞在中義母くらが亭主で「ひとりまじめ」で、太宰治、妻美知子、義妹愛子は「お菓子やお酒がめあて」で「げらげら笑ってばかり居」る、「不謹慎な客」という「珍妙な茶会」が催された。その会のあと、義母くらが堀内正路原版の『千家正流 茶の湯客の心得』(仁木文八郎、明治十七年五月十五日翻刻出版)という「珍本」と萩焼の茶碗と(なつめ)佐藤一斎の軸とを贈られた。「不審庵」は、この「珍本」を参考にして書かれ、一斎の軸は三鷹の家で始終掛けられていたという。

床の間の掛軸

 太宰は、前年1943年(昭和17年)にも、甲府旅館 明治を訪れ、正義と微笑を執筆していました。この時の様子は、2月23日の記事でも紹介しました。

 太宰は、よほど気に入ったのでしょうか。右大臣実朝を執筆するためにも、この旅館 明治を訪れました。

 また、この甲府滞在中、太宰は、妻・美知子の家族とともに、「珍妙なお茶会」に参加したようです。

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甲府水門町の石原家にて。前列左から太宰、母・くら、後列左より妹・愛子、美知子、弟・明、姉・冨美子。

 「珍妙なお茶会」の後、美知子の母・くらから貰った「佐藤一斎の軸は三鷹の家で始終掛けられていた」そうです。
 床の間に掛けられていたという掛軸についての面白いエピソードを、津島美知子『回想の太宰治から引用して紹介します。

 床の間の掛軸は、何度も入れ替わった末、佐藤一斎の書幅に落ちついた。
 掛軸が替わるのは、酔って気が大きくなった主人公が客人に進呈するからである。
 三鷹に移って最初に、法隆寺にある子規の、「柿くへば鐘が鳴るなりーー」の句碑の拓本の軸を掛けた。初秋だったし、借家の床の間にはふさわしいと思って私が掛けたのだが、まだ秋の終らないうちに、ある客に進呈してしまった。あっと思ったとき既におそく、客人の前で口争いするわけにもいかず、これからだろうからと楽観して次の軸に変える。またそれをあげてしまう。そのような繰り返しが三回ほどあった。愚かなことと思われるだろうが、床の間があって何も掛けてないのは宜しくないことと、私は律義に思いこんでいたのである。牧水の「幾山河越えさり行かばーー」と、丸っこい字で書かれた軸が消えたとき、それが姉の遺品であったし、度々のことでもあり、私は強く抗議した。軸だけでなく、私の大事にしている、それは少女趣味のおもちゃのようなものだったが、ある人に愛想よくあげてしまったこともあって、とにかく事前に一言のことわりも相談もないことを責めたのだが、太宰は一向平気で、おもしろそうに私を見て笑っているだけだった。
 昭和十六年ごろ、井伏先生がお見えになったある夜、先生が揮毫(きごう)してくださることになって、先生は「なだれと題す」詩を書いてくださった。大分御酩酊の先生は、「ーーそのなだれに熊が乗っているあぐらをかき安閑と(たばこ)をすうような」で筆をとめて、「恰好の恰好はどんな字だったかね。木偏かね」とおたずねになったが、酒は先生が一番お強いのであって、太宰も、同座していた塩月さんも、もう背骨を立てているのがやっとの状態で、顔を見合わせるばかり、はっきりお答ができず、結局先生は「格好」とお書きになった。このご揮毫も表装して掛けて間もなく、郷里のKさんに上げてしまった。しかしKさんは井伏先生とも面識あり、青森の人らしく物を大切にする方だから、この貴重な軸はきっと今でも無事にKさんが所蔵して居られることだろう。

 床の間の掛軸のことを回想すると、次々に太宰が軸をはずして人に上げたのは、ただ酔って気が大きくなっての結果だったのだろうか、疑わしくなってくる。だれの書にせよ、自分の書斎に人の揮毫を掲げること自体、好ましくなかったのではないかーーもし、そうだったのなら、書斎の主の揮毫を表装して黙って掛けて成行をみればよかったーーなくなっても、すぐ補充がついたのにーー。
 隣の四畳半の壁に、能面の本からきりとった「雪の小面(こおもて)」の写真版と、自分の写真とを並べてピンで留めたことがあったくらいの人だから、ひとの書いたものを私が掛けるのがおもしろくなくて、その潜在意識が大酔すると、はずれて呉れてしまうという衝動になって現れたのかもしれない。
 佐藤一斎の書幅も、勿論好んで掛けていたわけではない。昭和十八年頃、甲府で、なんのきっかけからか、母と私たちと妹と弟とで、妹の嫁入り道具の一式で茶会のまねごとをしたことがある。茶会には不似合な掛軸であるが、掛け替えもせず、床の間に掛けてあったのを、その会のあとで母がくれたので、元来亡父の遺品である。純粋に明治人である父にとって、一斎は敬慕の的だったのだろう。茶渋色の唐紙に「寒暑栄枯天地之呼吸也苦楽寵」「辱人生之呼吸也在達者何必驚其遽至哉」と二行、急湍(きゅうたん)のような筆勢で書きくだし、「一斎老人」と、「愛日」「八十翁」という落款が入っている。
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 偶然から、この固い漢文の書が書けられるようになったが、こんどは今までのようなことがなくて、最後まで床の間に掛けられていた。
 この軸を甲府でもらったときに、太宰はじめ若いもの誰も読みくだせなかったくらいだから、三鷹の客人たちも多分読み難かったのだろう。また自宅でゆっくり飲んで酔って遊ぶことも時勢で少なくなっていた。それでも太宰は、この軸のことを「林房雄にやろうと思うんだ」と言っていた。
 鴎外の書斎には一斎の書の扁額が掲げてあったそうで、それを中村哲氏が台北森於菟(もりおと)邸で拝見されたこと、鴎外が史伝では一斎にはほとんど触れていないにもかかわらず、その書斎に一斎の書を掲げていたことにかえって興味をひかれたことなどを書いておられる(昭和十四年四月二十九日付朝日新聞「ほんとうの教育者はと問われて」23)。
 影響力の強い儒者であったらしいが、上記のような径路で、偶然この書斎に入ってきたのであって、太宰は一斎の業績や人物について興味もなかったのではないだろうか。
 ともあれ長い間、かけているうちに、この書と書斎の主人公とが、すっかり馴染んで、おさむらいだ、昔の人だなどと、近所の子供たちに言われた彼の風貌が、この軸とぴったり合うようにさえ思われてきたのだから、ふしぎなものである。

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斎藤一斎像渡辺崋山筆)

 斎藤一(さいとういっさい)(1772~1859)は、美濃国岩村藩出身の儒学者
 著書に、斎藤が後半生の40余年にわたって書いた語録言志四録(げんししろく)があります。この言志四録(げんししろく)は、『言志録』、『言志後録』、『言志晩録』、『言志耋録』の4書の総称。指導者のためのバイブルと呼ばれ、現代まで長く読み継がれています。西郷隆盛の愛読書でもありました。

 2001年(平成13年)5月、総理大臣に就いて間もない小泉純一郎が、参議院での「教育関連法案」審議中に、『言志四録』から、以下の文言を引用し、知名度があがりました。

 少くして学べば、則ち壮にして為すことあり
 壮にして学べば、則ち老いて衰えず
 老いて学べば、則ち死して朽ちず

 これは、一斎の言葉として有名な「三学戒」で、『言志晩録』の第60条にあたります。 

 【了】

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【参考文献】
・『新潮日本文学アルバム 19 太宰治』(新潮社、1983年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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