4月1日の太宰治。
1922年(大正11年)4月1日。
太宰治 12歳。
学力補充のため、金木町郊外の大字金木字芦野の松林のなかにあった、金木と嘉瀬、喜良市、武田の四か村の組合立として明治二十六年五月に創立された明治高等小学校に入学し、一年間通学した。
学力補充のため、高等小学校へ
太宰は、1922年(大正11年)3月23日に金木第一尋常小学校を、6年間全甲首席、卒業生56名(男34名、女22名)の総代で卒業しました。太宰の生家である津島家は、県下有数の大地主だったため、実際の成績に関係なく、学業は全て「甲」をつけられていましたが、太宰は実際の成績も良く、開校以来の秀才と言われていたそうです。
■小学校時代の旧友と 左から2人目が太宰。
「開校以来の秀才」だった太宰ですが、「学力補充のため」に青森県立青森中学に入る前の1年間、明治高等小学校に通学することになります。これは、太宰の次兄・英治と三兄・圭治が成績不振で、弘前中学校を2年で中退してしまったため、兄たち同様に落ちこぼれないように、と父・源右衛門が判断したためでした。
この「高等小学校」は、明治維新から第二次世界大戦勃発前の時代に存在した、後期初等教育・前期中等教育機関です。現在の中学校にあたり、高等科や
さて、明治高等小学校に入学した太宰ですが、太宰と同級生だった津島八十八によると、この明治高等小学校には、近郊の6つの尋常小学校から優秀な者が集まり、出身校ごとに集団化して、学業にいたずらに、覇を競っていたそうです。
クラスは、成績順に男子組と男女組との二組に分けられましたが、太宰は成績優秀者で編成される一組に入りました。
太宰は、高等小学校でも持ち前の茶目っ気を発揮。時には他村出身の集団と対立して、首領的存在になったと言われています。成績は優秀でしたが、終身と操行は「乙」でした。腕白が影響したのでしょうか。
■明治高等小学校の学籍簿 終身と操行だけは「乙」となっている。
在学中、毎日放課後になると、担当訓導だった
また、綴方については、「どんな突飛な課題を与えても、ユーモアを交じえて、ひとつの話に仕上げてしまう。しかも話の進め具合が奇想天外で、つい読むことに夢中になってしまう。また観察力がすぐれていて、家族や兄弟のことを書かせると、他の人の気がつかないような点を鋭く見ぬいたり、友人のことや地方巡りでやってくる動物園を見に行ったことなどを書かせると、細かな点までありのままに綴った」といいます。
■作文ノート 「予習読方帖」に書かれた『僕の幼児』。
【了】
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【参考文献】
・『新潮日本文学アルバム 19 太宰治』(新潮社、1983年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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