4月4日の太宰治。
1935年(昭和10年)4月4日。
太宰治 25歳。
腹痛を訴え、腹部を
太宰は、本当に麻薬中毒だったのか?
3月16日、18日、21日と3回の記事に分けて紹介した、鎌倉八幡宮の裏山での
1935年(昭和10年)4月4日、太宰は腹痛を訴え、腹部を
翌4月5日、盲腸炎の手術を受けましたが、少し手遅れで、
入院中、患部の
このパビナール注射が原因で、太宰はパビナール中毒(麻薬中毒)になったといわれます。
確かに太宰は、パビナールが習慣化し、以後1年半にわたって中毒と、薬品購入のための借財に苦しみました。思うように作品の執筆が進まない焦燥感や、過剰なプライドと現実の文壇の評価との落差も、多分に影響していたと考えられます。有名な「芥川賞事件」も、この時期の出来事です。
■1936年(昭和11年)7月11日付、津島文治宛ハガキ。友人や先輩に借金を返済するため、長兄・津島文治に200円(現在の貨幣価値で、約34~40万円)の借金を願い出ています。
しかし、「一日四筒」という注射頻度は、どの程度の中毒具合だったのでしょうか。
『太宰治文学アルバム ―女性篇―』からの引用で、太宰の「実証的研究」を行った在野の研究者・長篠康一郎(1926~2007)の考察を紹介します。
(著者注:船橋時代、太宰にパビナールを販売していた川奈部薬局の)川奈部真佐雄氏は、千葉大薬専を出てからずっと父の薬局を手伝っておられたが、太宰治が購入していたパビナール・アトロピン(モルヒネの一種で許可制)は、一〇本入り一箱で、三日目か四日目毎に求めに来ていたという。これは昭和十一年九月、十月の頃であるから、その分量からは、一日に二本乃至三本を用いていたと推定して間違いないであろう。船橋地区におけるパビナールは、川奈部薬局が当時一手で各病医院に納入していた関係で、在庫量、使用量はつねに正確に記帳されており、川奈部薬局以外からの入手は考えられない。
つまり、船橋時代のパビナールの使用量は、当時よく訪ねていた桜岡孝治氏が、二本程度と証言されているように、これまで伝えられてきた用量(一日に五〇本から六〇本)の二十分の一か、もしくはそれ以下となろう。最後のころになると、次第に掛売りになってしまい、そのまま支払ってもらえなかった。おそらく、板橋の武蔵野病院に突然強制収容されてしまった故でもあるだろう。なお、小山初代が川奈部薬局へ薬を求めに来たことは、一度も無かったということである。
(著者注:武蔵野病院)入院前の病歴並びに中毒症状に就いて、次のように記載されている。
「七年前情死行為アリ(女ノミ死亡自ラハ未遂)昨年春モ鎌倉ニテ縊死未遂」「本年二月中約十日間芝済生会ニ入院(麻薬中毒禁断ノ為)全治退院セルモ約一ヶ月後再ビ最初ハ船橋ノ某医ニヨリ、パビナール・アトロピン注射ヲハジメ(皮下)間モナク自ラ注射シ現在ハ一日一〇筒―三〇筒ニ及ブ」
右の記載事項は、いずれも付添人の陳述であり、担当医師としても、これをそのまま記入したものと考えられる。船橋での実態調査など不可能であったろうから、それもやむを得なかったであろう。太宰治自身が問診に答えたカルテならば、「船橋の某医」なる曖昧な表現を用いるとは、とても思えないからである。
そしてまた、一日に一〇筒―三〇筒という入院前のパビナールの用量にしても、なんら実証的に証明され確認されたものではない。このように、武蔵野病院入院中の治療法、看護日誌、病床日誌を客観的に検討し重視するならば、船橋時代の太宰治が、特に精神病院に緊急強制収容せねばならぬほどの、重症 の麻薬中毒者であったとは到底思えず、この程度であれば僅 か一ヵ月で退院し、その後一度も再発の徴候すら示していないのも、けだし当然のことであったろう。
何が事実かは分かりませんが、「~といわれている」という事を、全て事実と捉えてしまうのは難しそうです。
【了】
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【参考文献】
・長篠康一郎『太宰治文学アルバム ―女性篇―』(広論社、1982年)
・長篠康一郎『太宰治水上心中』(広論社、1982年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「日本円貨幣価値計算機」(https://yaruzou.net/hprice/hprice-calc.html)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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