【冒頭】
無事、大任を果しました。どんな大任だか、君は、ご存じないでしょう。「これから、旅に出ます。」とだけ葉書に書いて教え、どこへ何しに行くのやら君には申し上げていなかった。てれくさかったのです。また、君がそれを知ったら、れいの如く心配して何やらかやら忠告、教訓をはじめるのではないかと思い、それを恐れて、わざと目的は申し上げずに旅に出ました。
【結句】
みみずくの、ひとり笑いや秋の暮。
「みみずく通信 」について
・新潮文庫『ろまん燈籠』所収。
・昭和15年3月23、24日頃までに脱稿。
・昭和15年5月1日、『新潮』五月号に発表。
全文掲載(「青空文庫」より)
無事、大任を果しました。どんな大任だか、君は、ご存じないでしょう。「これから、旅に出ます。」とだけ葉書にかいて教え、どこへ何しに行くのやら君には申し上げていなかった。てれくさかったのです。また、君がそれを知ったら、れいの如く心配して何やらかやら忠告、教訓をはじめるのではないかと思い、それを恐れて、わざと目的は申し上げずに旅に出ました。先日、私の甘い短篇小説が、ラジオで放送された時にも、私は誰にも知られないように祈っていました。ことにも、君に聞かれては、それこそ穴あらば
けさ、新潟へ着いたのです。駅には、生徒が二人、迎えに来ていました。学芸部の委員なのかも知れません。私たちは駅から旅館まで歩きました。何丁くらいあったのでしょう。私は、ご存じのように距離の測定が下手なので、何丁程とも申し上げられませんが、なんでも二十分ちかく歩きました。新潟の街は、へんに埃っぽく乾いていました。捨てられた新聞紙が、風に吹かれて、広い道路の上を模型の軍艦のように、素早くちょろちょろ走っていました。道路は、川のように広いのです。電車のレエルが無いから、なおの事、白くだだっ広く見えるのでしょう。万代橋も渡りました。
ひる少し前に起きて、私は、ごはんを食べました。
「授業中にも、浪の音が聞えるだろうね。」
「そんな事は、ありません。」生徒たちは顔を見合せて、失笑しました。私の老いたロマンチシズムが
正門前で自動車から降りて、見ると、学校は渋柿色の木造建築で、低く、砂丘の陰に潜んでいる兵舎のようでありました。玄関傍の窓から、女の人の笑顔が三つ四つ、こちらを
校長室に案内されて、私は、ただ、きょろきょろしていました。案内して来た生徒たちは、むかし此の学校に芥川龍之介も講演しに来て、その時、講堂の彫刻を
やがて出て来た主任の先生と挨拶して、それから会場へ出かけました。会場には生徒の他に一般市民も集っていました。隅に、女の人も、五、六人かたまって腰かけていたようでした。私が、はいって行くと、拍手が起りました。私は、少し笑いました。
「別に、用意もして参りませんでした。宿屋で寝ながら考えてみましたが、まとまりませんでした。こんな事になるかも知れぬと思って、私の創作集を二冊ふところに容れて、東京から持って参りました。やはり、之を、読むより他は、ありません。読んでいるうちに何か思いつくでしょうから、思いついたら、またその時には、申し上げます。」
私は、「思い出」という初期の作品を、一章だけ読みました。それから、私小説に就いて少し言いました。告白の限度という事にも言及しました。ふい、ふいと思いついた事を、てれくさい虫を押し殺し押し殺し、どもりながら言いました。自己暴露の底の愛情に就いても言ってみました。しばらく言っているうちに、だんだん言いたくなくなりました。話が、とぎれてしまいました。私は四、五はい水を飲んで、さらにもう一冊の創作集を取り上げ、「走れメロス」という近作を大声で読んでみました。するとまた言いたい事も出て来たので、水を飲み、こんどは友情に就いて話しました。
「青春は、友情の
「いいえ、私のほうは大丈夫です。あなた達のほうがお疲れだったでしょう。」と言いましたら、場内に笑声が
十分間、皆その場に坐ったままで休憩しました。それから、私は生徒たちのまん中に席を移して、質問を待ちました。
「さっきの、幼年時代をお書きになる時、子供の心になり切る事も、むずかしいでしょうし、やはり作者としての大人の心も
「いや、その事に就いては、僕は安心しています。なぜなら、僕は、いまでも子供ですから。」みんな笑いました。私は、笑わせるつもりで言ったのではないのでした。私の嘆きを真面目に答えたつもりなのでした。
質問は、あまりありませんでした。仕方が無いから、私は独白の調子でいろいろ言いました。ありがとう、すみません、等の挨拶の言葉を、なぜ人は言わなければならないか。それを感じた時、人は、必ずそれを言うべきである。言わなければわからぬという興覚めの事実。卑屈は、恥に非ず。被害妄想と一般に言われている心の状態は、必ずしも精神病でない。自己制御、謙譲も美しいが、のほほん顔の王さまも美しい。どちらが神に近いか、それは私にも、わからない。いろいろ思いつくままに、言いました。罪の意識という事に就いても言いました。やがて委員が立って、「それでは、
これで、私の用事は、すんだのです。いや、それから生徒の有志たちと、まちのイタリヤ軒という洋食屋で一緒に晩ごはんをいただいて、それから、はじめて私は自由になれるわけなのです。会場からまた拍手に送られて退出し、薄暗い校長室へ行き、主任の先生と
「海を見に行こう。」と私のほうから言葉を掛けて、どんどん海岸のほうへ歩いて行きました。生徒たちは、黙ってついて来ました。
日本海。君は、日本海を見た事がありますか。黒い水。固い浪。佐渡が、
「君たちは朝日を見た事があるかね。朝日もやっぱり、こんなに大きいかね。僕は、まだ朝日を見た事が無いんだ。」
「僕は富士山に登った時、朝日の昇るところを見ました。」ひとりの生徒が答えました。
「その時、どうだったね。やっぱり、こんなに大きかったかね。こんな工合いに、ぶるぶる煮えたぎって、血のような感じがあったかね。」
「いいえ、どこか違うようです。こんなに悲しくありませんでした。」
「そうかね、やっぱり、ちがうかね。朝日は、やっぱり偉いんだね。新鮮なんだね。夕日は、どうも、少しなまぐさいね。疲れた魚の匂いがあるね。」
砂丘が少しずつ暗くなりました。遠くに点々と、散歩者の姿も見えます。人の姿のようでは無く、
「これあいい。忘れ得ぬ思い出の一つだ。」私は、きざな事を言いました。
私たちは海と別れて、新潟のまちのほうへ歩いて行きました。いつのまにやら、背後の生徒が十人以上になっていました。新潟のまちは、新開地の感じでありましたが、けれども、ところどころに古い廃屋が、
「水清ければ魚住まずと言うが、」私は、次第にだらしない事をおしゃべりするようになりました。「こんなに水が汚くても、やっぱり住めないだろうね。」
「
「泥鰌が? なんだ、
イタリヤ軒に着きました。ここは有名なところらしいのです。君も
生徒が十五、六人、それに先生が二人、一緒に晩ごはんを食べました。生徒たちも、だんだんわがままな事を言うようになりました。
「太宰さんを、もっと変った人かと思っていました。案外、常識家ですね。」
「生活は、常識的にしようと心掛けているんだ。青白い憂鬱なんてのは、かえって通俗なものだからね。」
「自分ひとり作家づらをして生きている事は、悪い事だと思いませんか。作家になりたくっても、がまんして他の仕事に埋れて行く人もあると思いますが。」
「それは逆だ。他に何をしても駄目だったから、作家になったとも言える。」
「じゃ僕なんか有望なわけです。何をしても駄目です。」
「君は、今まで何も失敗してやしないじゃないか。駄目だかどうだか、自分で実際やってみて転倒して傷ついて、それからでなければ言えない言葉だ。何もしないさきから、僕は駄目だときめてしまうのは、それあ怠惰だ。」
晩ごはんが済んで、私は生徒たちと、おわかれしました。
「大学へはいって、くるしい事が起ったら相談に来給え。作家は、無用の長物かも知れんが、そんな時には、ほんの少しだろうが有りがたいところもあるものだよ。勉強し給え。おわかれに当って言いたいのは、それだけだ。諸君、勉強し給え、だ。」
生徒たちと、わかれてから、私は、ほんの少し酒を飲みに、或る家へはいりました。そこの女のひとが私の姿を見て、
「あなた、剣道の先生でしょう?」と無心に言いました。
剣道の先生は、真面目な顔をして、ただいま宿へ帰り、
【了】
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